貧乏性のたががはずれるとき

のんたん

2012年11月09日 19:38

結婚して初めて親戚の集まりに参加した、夫の実家の法事。

兄嫁さんが湯沸かし器を使って茶碗を洗ったらお姑さんが

親戚衆の前で「あれはお湯をジャージャー使って洗い物しよるからたまらんわ!。」と

舌打ちをしたのを聞いて

「このうちではお湯を使ったらあかん;」とドキドキした鮮明な記憶。

それまで、穏やかな祖母と、よくいえば「おおらか」つまりは超おおざっぱな母しか

女家族を知らなかったわたしは、

お姑さんの、思ったことをきつくいう(夫の実家は建材屋だった)気質に、びびりまくっていた。

のれんに腕押し、糠に釘を貫ける兄嫁さん、孫ほども年の離れた現代っ子の弟嫁さん、

一番おばあちゃんが御しやすかったのは、へたれでびびり屋の真ん中嫁の私だったのだろう。

よくあそこまで彼女の言いなりというか、いうことを聞いていたものだ、と

いくぶん心臓に毛が生えてきた今は思う。

一事が万事、あたかも軍曹と歩兵、という関係だったような気がする。

その生活が身に沁みついて、今は軍曹様はもう家にはいないのに

いまだ、洗い物にお湯を使うと罪悪感があったり。

入浴も湯船のお湯で頭も洗って上がり湯だけシャワー、なんて癖が抜けなかった。

ところが、独りでいる時間に他の部屋も電気をつけっぱなしにする生活を自分に許したあたりから

この「箍(たが)」が外れはじめ。

映画のシーンのように「ふふ~ん」とばかりに、始めからシャワーを浴びる贅沢を知り。

茶碗の洗い桶に残った水を次の漬け置き洗い用に残しておく、おばあちゃん流を振り払い

さっさと古水を捨てて桶を乾かせる心地よさを堪能し。

サランラップは一度使いで捨てられるようになった(笑)

大出世だ。


わたしは、姑になってもきっとこのへたれのままだろう。

だから、息子が結婚したら、

松の林のかげの小さな茅葺の小屋に居て、なんて「雨ニモ負ケズ」よろしく

隠居家を探したいと思っていたりする。


気兼ねせず、文句も言わず、言われず、苦にもされず

そういふひとに わたしはなりたい。

(笑)



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