ひとみにひとすじの

のんたん

2011年07月07日 00:28

少しずつリハビリを始めた父。

足の上げ下げやベッドから起き上がりトイレまでを、点滴ポールを支えに歩いていく練習などを

トレーナーの見守りで。

できることが一つでも増えることは回復への気力をつける。

心が体をひっぱりあげていくのだ。

おかゆのおかずにあれこれを試している。

副菜はほとんど食べられずにいるのでおかゆをいかに飽きずに食べるかを課題にしている父。

今回は食べたいと所望の蜂の子を買って行った。

ひさしぶりに「うまい」の言葉を聴く。

「食べたいと思うときに食べる、それが美味しさの基本だな」と。

ああ。生きていく確信をもった言葉はうれしい。


なにかのきっかけで、葬式の話になる。

見送るものの心情、悲しみの表れ方など。

「人から見れば冷たく見えるかもしれないが。人前でおいおいと泣く、あれはできない。」と父。

亡き母の葬儀のときのはなし。

普段ほとんど交流もなかった姻族親戚の女性が、棺にすがるように母の名を呼び慟哭していた。

内心あっけにとられた。

「泣き女をつれてきたようでいやだった。」と父。

「ああ。あれね、、実はわたしもそう思った。」

もう15年以上も前のことだが、印象に強く残っていたようだ。

中国や韓国にある「泣き女」の風習が頭をよぎる光景だった。

「俺は冷たいのかな、兄姉の葬儀でも、泣けなかったなぁ」というので、

「故人に近しいほど、他人の前でおいおいとは泣けないものだよ。日本人にはそういう気性が染み付いているし。悲しみは深いと発露してくるのに時間がかかるから。後から、なんでもないときに、いきなりきたり(涙腺暴発)したでしょ。」と話すと

「ああ、、そうだったなぁ。」と。

昔、20代半ばで早逝した、いとこのお姉ちゃんの生前の言葉を思い出した。
「見送るときの涙はね、ひとみから、ひとすじ。召される方の昇天を慮って騒ぎ立てず静かにひとすじを流すものよ。」

その彼女を見送るとき、彼女の妹が、おねえちゃんのいうとおりにできなかったかも、と真っ赤な眼をして話してくれたっけ。

今朝、友人のお見送りに参加した。

涙というのは、泣こうと思わなくても勝手に流れてしまうものなんだと気づいた。





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