あとから届いたお香典のお返しをそれぞれ梱包し、発送票を書き貼っていく。
添え書きをくださった方にはお返事を書き添える。
庶務事務をしていた時のような仕事錯覚を覚える。
手を動かしながら、夫の最期の笑みを繰り返し思い出す。
遺されたものにとっては救いとなった笑み。
だが、もしかしたらあの笑みは、迎えに来てくれた人への喜びだったのかもしれないなと思ったりする。
人は逝くとき、一番会いたかった故人が迎えに来てくれるのだそうだ。
夫の父か、兄か、いや、育ててくれた祖母であったか。。
なつかしさに顔がほころんだのかもしれない。
夫は幼いころ、祖母のうちに預けられていた。
夫の兄が幼稚園、弟が生まれたばかり、商売をやっていた両親は一番眼が離せない時期の夫まで手が回らず
祖父が亡くなったばかりでさみしいだろうという名分で、2歳の夫を祖母に預けた。
乗鞍の山の中、祖母との二人暮らしは、小学校入学直前まで続いた。
ふたつきに一度くらい、両親が山に顔を見に上ってきたという。
今度こそ迎えかと期待しては、「いい子にしてろな。」と帰ってしまう両親を見送るのは
祖母との暮らしに不満はなかったものの幼心に堪えたものだったと話してくれたことがあった。
なんていうか、物悲しいような虚脱のような、言い表せない感情だったなぁ、、と。
さりとて泣いて帰りたいとすがるようなこともなかった、聴き分けの良い子どもであったらしく
おばあちゃんは母としてその時期のことを余り苦にした風もなく。
「正月だったか、久しぶりにヒロ(夫)を連れ帰ったら、弟が『もう帰れ』というそぶりで
ヒロを押しこくって邪魔にした。物ごころつく前に離れたので兄弟という意識がなかったんだろう。
これはもう戻した方がいいかなとそんとき思ったんで、小学校入学からこっちに連れ帰ったんだ。」と
わたしへの昔話のおりに、話していた。
夫の幼いころの思い出話は、山で祖母と暮らした野生児時代のものが多く、囲炉裏端で過ごす日々、
床の隅にころがした味噌玉を拾っては削って作ったみそ汁の味
雪山の木々の間をぬって木そりで疾走して谷へ落ちかけ、枝にひっかかったところを
きこりに助け出されたはなしなど、民話の世界のようだった。
「山のばば」と祖母のことを夫は呼んでいた。
迎え人は、その「ばば」であっただろうか。。。
母親から離された子は、人一倍その親に執着をするという。
3兄弟の中でも一番孝行だった夫。
彼の想いは報われてきたのだろうか。。。
おばあちゃんに響いてくれているといいな。。
わがままをいわない、ききわけのよいこは、後回しにされやすい。
だがひとたび、事が起こると、まずあの子に頼もうと便利意識が働く。
親への孝は、ときに自分の作った家族への負担や犠牲の上に動くこともあり
ひそかに泣く日々もあった。
一部始終をそばで見てきた下息子は
「母、俺は、悪いけど自分がつくった家族を最優先にする夫になると思う。」と思春期に宣言した。
そうしなさい、と称えた。
それでも夫婦でやってこれたのは、夫の誠実と、人柄が上回って有難かったからだ。
闘病の日々の中で「ばあさんのことだけは、ほんとうに、すまなかったなぁ、、。」としみじみ嘆くので
「その何倍も幸せもらってきたから、おつりがきてるよ。」と、あとはお互いの褒めあいっこをして
「またまたぁ。」「うまいねぇ。」と笑いあった。
夫は、子どもに戻って、父や祖母に、生前に尽くしてきた孝行を、「見てたよ」「えらかったねぇ」と
「褒めて」もらって抱かれて、笑んで、逝ったのだ、きっと。
出来上がり、山となった香典返しの梱包を玄関に運び、集荷を待つ。
「雪が舞ってきたよ、さむいねぇ。」と宅配集荷のおじさんが飛び込んできた。
ねぎらうと「こちとら、正月も暮れもないで、今からがピークせ。」と手早く発送処理をしながら世間話。
「うちの人も同じよぉ、盆暮れ関係なく仕事でさぁ。。」と言いそうになって
ああ、、もう、違った。。と気がついてうなずきだけ返す。
ふぅ。
今日も、またひとつ、お仕事終わった。
まだまだ、あるんだよぉ、お父さん。 褒めて?。(笑)