スウプ
スープをいただくときに、いつも意識してしまう「斜陽」
スープ、ではなく、「スウプ」をいただく、あの「お母さま」を想う。
『お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁ふちにかけて、
上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、
お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、
それから、燕つばめのように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、
スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。
そうして、無心そうにあちこちわきみなどなさりながら、
ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、
スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。
それはいわゆる正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、
私の目には、とても可愛かわいらしく、それこそほんものみたいに見える。』
――太宰治「斜陽」冒頭部の一文――
真似してみたくて恥ずかしくてできない。
『お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んで』
しまう、ふつうの自分。
すこぶる礼法にはずれながら、美しく生きる「ほんもの」。
「ほんもの」は、そのことに頓着もせず、意識もせず、当たり前に「ほんもの」でいる。
スウプに比喩したが、背筋をのばそう、のばそうと意識して生きている自分を振り返る。
ほんものになれないのなら、それを悲観すまい。
ほんものより、ほんものらしい偽物になればいい。
自分に課すか、課さぬかだ。
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