影アナやMCなどをしていると
圧倒的な才能で身を立てているアーティスト(作家、演奏家等)の方々の近くに身を置くことが多い。
私の立ち位置は、そのイベントの一スタッフとして声を担当しているにすぎず、
出演者側には入らない。名無しのごんベイ。
それが自分の居心地としてしっくりもしている。
なかには親しくしてくださる方もいて、わたしを「アーティスト」の括りの中に入れて接していただけたりもするのだが。
つくづく、自分は「一般人」である。
秀でた才能に自己表現へのたゆまぬ努力。
どちらもほど遠い。
スタッフとしての努力は心がけている。
声ボラ指導者としての研さんもしているという自負はある。
こういった蔭仕事の活動を長くしているせいにしてはいかんのだが、
自己表現、といわれると、はたと戸惑う。
たとえば、演奏会で「MC」ならば、はいはい、なのだ。
しかし、コラボ、でとくると、自己表現の世界になるのだが、
これが、無意識に「演奏の前説」な構成が出来上がってしまう。
作品より自分が前に出ることが、自分の中で「禁忌」、ストッパーがかかっていることを実感する。
そのときは、めいっぱい「自己表現域」を作ったつもりでいても、後でそのステージを客観視して聴くと
MC域を脱しておらず、アーティストになれていない。
癖か、いや、自信のなさが、MC癖を隠れ蓑にしているのではと自省もする。
ストッパーを外すには、たぶん、自己表現域に生きている人の何倍も努力とかける時間が必要な人間なのだろう。
才能者の近くにいるからと言って、己が表現者の仲間入りをしているような錯覚に慢心してはならない。
入口にさえ、立っていないことを、いつも自覚していなければ。
望まれれば答えたい。そういう受け身での精進だから進まない。すべからくそれが自分の基本になっているからたちが悪い。
立ち位置をかえることは、殻を脱ぐ恐怖の克服でもある。
能無しの自覚と真っ向から向き合い、落ち込んで、その上で登ろうとあがけるむき出しな欲求をもつこと。
「決シテ瞋ラズ」(雨ニモマケズ、より)は、とりあえず、こっちに置いとかんといけんかもしれない。