裏方になるのは、自分を露出することから逃げているだけだと、言われたことがあった。
打って出て稼ぐ仕事をせず、自身を表舞台に投じることを怠け、ボランティアや袖仕事に逃げてるんだと。
「わたしのため」という言い分は、ありがたい気持ちであるが
あまりに確信的にくりかえし言いつのられたので、内心不快に思いつつ
もしかしてそうなのかなぁと、自分のしていることに自信が持てなくなったりした。
そのうち心が疲れて、他人に自分の感情を操作されてはいけないのだと、雑音を断ち。
自身との対話に立ち返った。
パフォーマーとして立つことは、確かに楽しみでもあるし、技術向上心を鼓舞させる。
けれど、輝かせたいのは、「自分」か?と考えると、ん~~、そうでもなかったりする。
感動してほしいのは、わたしの表情や演技にではなく、その「作品」に対してであり、
その媒体として自分の感性や技術を駆使する、という作業が心地よいのだ。
ステージ司会や影アナで、ゲストの登場シーンや歌いだし、話だしの前に、原稿に加味して演出的MCを入れるのも、
その方が、いかにその方らしくスタートしていただけるかに腐心する「裏方」仕事であり、
「わたし」が紹介するゲストです!ではない。
MCとして機能しながら、その存在感は希薄であるべきと思っている。
トークショーしかり。
徹子の部屋、みたいに、そのパーソナリティーの個性でゲストを引っ張る手法も著名人では有効だが
わたしがするインタビュー方式のトークは、ゲストの発言が印象に残るよう、誘導する役割であり、
聴き手の言葉はやはり、呼び水として機能しながら、その存在は希薄であるべきだと思っている。
講座では、さあ、私のように読めるようになりましょう、という講座はしない。
講座の中で見本読みをほとんどしないのは、講座は、受講生が主人公であり、彼ら彼女らの個性に合った朗読が輝くためのものだから。
なぞりや継承をさせるつもりはない。
ボランティアの世界でも、いかに人が動きやすい形を作って行こうかとあれこれ動き回ることは
自分が動く方であれば、こうあってほしい、という想い。
してほしいことを人にし続けることで、自分がしたいことがより明確になっていくブーメランであると思っている。
だから、なんださかこんなさかで、えっちらほっちらしているのだ。
いろんなやり方があって当たり前。
わたしらしく仕事をしているのだ。わたしは。
強い言葉を放たれると、瞬時に言い返せないので、逡巡とする。
けれど、ゆっくり答えは出てくる。
そういう意味では、受けた批判も考えるネタにはなったのかもしれない。
だが、批判した人が言ってくれたような生き方は、やはりわたしのものではないのだ。