人生の中で現実感のなさをたびたび感じてきた。
何年も一緒に過ごしているのに、ふと今のこの状態が自分の「当たり前」として認識できず
ふわふわとした、なんていうんだろ、ここにいるわたしは、暫定的、みたいなよりどころのなさ?
もちろん、幸福感でいっぱいになった瞬間もあったし、日々の暮らしは足が地についたものだったと思うのだけれど。
永遠、といかないまでも、「ずっと」を信じたことがなかった。
確かに、自分はここにいて暮らしているのに、自分の存在感が希薄で、透明人間になったような
生身の自分をどこかからスコープで観察しながら「ふ~ん」と第3目線で見ている自我。
受け入れる、という過程をおろぬいて生きていたのだろうか。
プチかい離?
だからやり過ごせてきたのかもしれないし、人生の醍醐味を、もったいなくもスルーしてきたともいえる。
正直に言えば、私の喜怒哀楽は「学習」による表現で、自然発露に由来しない。
感情スイッチは勝手に入るものではなく、自分で入れる手動型なのだ。
忘れていると、のっぺらぼうのでくのぼうだと思う。
それが怖いからスイッチはこまめに随時入れる癖がついていて
だから人からは感情豊か、とか思われてありがたいけど後ろめたかったりする。
こんなんでここまで生きちゃったから、この先もこんなんで生きていくのだろう。
幼少期祖母に育てられていたころは、豊かすぎるほどにぎやかな感情変化を持っていた気がするのだが
祖母が他界して思春期前あたりから、こののっぺらぼうな自分が始まった。
自動スイッチをなくしてしまったちょっと、めんどくさい生き方を持ってしまった。
老年期に認知症にでもなれば、たががはずれて能面型になるのかもしれない。