現実感のなさ

のんたん

2012年01月24日 10:03

人生の中で現実感のなさをたびたび感じてきた。

何年も一緒に過ごしているのに、ふと今のこの状態が自分の「当たり前」として認識できず

ふわふわとした、なんていうんだろ、ここにいるわたしは、暫定的、みたいなよりどころのなさ?

もちろん、幸福感でいっぱいになった瞬間もあったし、日々の暮らしは足が地についたものだったと思うのだけれど。

永遠、といかないまでも、「ずっと」を信じたことがなかった。

確かに、自分はここにいて暮らしているのに、自分の存在感が希薄で、透明人間になったような

生身の自分をどこかからスコープで観察しながら「ふ~ん」と第3目線で見ている自我。

受け入れる、という過程をおろぬいて生きていたのだろうか。

プチかい離?

だからやり過ごせてきたのかもしれないし、人生の醍醐味を、もったいなくもスルーしてきたともいえる。

正直に言えば、私の喜怒哀楽は「学習」による表現で、自然発露に由来しない。

感情スイッチは勝手に入るものではなく、自分で入れる手動型なのだ。

忘れていると、のっぺらぼうのでくのぼうだと思う。

それが怖いからスイッチはこまめに随時入れる癖がついていて

だから人からは感情豊か、とか思われてありがたいけど後ろめたかったりする。

こんなんでここまで生きちゃったから、この先もこんなんで生きていくのだろう。

幼少期祖母に育てられていたころは、豊かすぎるほどにぎやかな感情変化を持っていた気がするのだが

祖母が他界して思春期前あたりから、こののっぺらぼうな自分が始まった。

自動スイッチをなくしてしまったちょっと、めんどくさい生き方を持ってしまった。

老年期に認知症にでもなれば、たががはずれて能面型になるのかもしれない。




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