2015年09月12日
桔梗ヶ原ものがたり 4
前編はこちらから。
************************************
さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
桔梗ヶ原がひとつの区として独立する前では、この地は平出と床尾に分散されておりました。
いきおい平出と床尾の衆は、なにかとライバル意識が働いて、小競り合いがおおございました。
それをおさめたのが、桔梗ヶ原神社でございます。
桔梗ヶ原神社は大正15年に建立されましたが、それ以前には玄蕃稲荷の小さな祠がぽつんと芝草の上にあるだけでした。
この祠は当時平出の地籍でありましたので平出の衆が祭典を行っていました。
あるとき、親睦をはかることを目的としてこの祭りに平出、床尾の衆が双方寄り集まって酒宴を張りましたところ、酔いが進むにつれ日頃のうっぷんがわき出でて。
とうとう乱闘騒ぎになる始末。以来床尾の衆はこの祭りにいっさい足を運ばなくなる事態に。
子どもらは、境を関係なくまつわって遊んだものでございますが、喉が乾けばにごり水といえど井戸の水に手を伸ばします。
それを「床尾の水を飲むじゃねえ!」 と大人にまくられたこともあったわね、との思い出話も御年配よりお聞きしました。
入植者はその境界によって平出、床尾に分散されておりましたので、
内心は「困ったねぇ」「一緒に頑張って開墾した仲間なのにねぇ」とその争いを憂いておりました。
そうしたこともあってか、大正12年、分断されていた桔梗ヶ原は、平出、床尾からそれぞれに離脱し、単体で桔梗ヶ原区とあいなりました。
がしかし、わだかまりはまだくすぶり、対立意識は残っておりました。
それを一掃したのが、桔梗ヶ原神社の建立でございます。
当時の資料には、その対立を緩和するためにも神社の建立が不可欠との、顔役たちの想いが強く書かれております。
果樹生産地として、作神が必要と篤志が建立に尽力を図ったことにより、
この農村地帯を一体とする神様をまつる神社となり、こまかな地籍を関係なく自然とみながお参りするようになり、ともに祭典を行うようになりました。
そして、神社建立は平出の衆が、深層井戸の掘削は床尾の衆が受け持ち、桔梗ヶ原として独立した移住の民を隣人として改めて受け入れてくれたのでございます。
その後は、もともとは移住者の集まり、土着の古いしきたりやしがらみのない開拓民のまちとなった桔梗ヶ原は、その開拓魂ととともにさらなる発展を遂げてまいりました。
前例びいきをもたぬ開拓者ならではの冒険心、やってみてダメならこだわらずに次!そのこだわりのなさが功を奏したわけでございます。
***************************************************
桔梗が原神社には、生産の神とともに、今も玄蕃の丞の祠がちゃんとおいでなさいます。
一昨年には、駅前に設置されておりました玄蕃狐の石像も寄贈され、名実ともに、「桔梗ヶ原の玄蕃の丞」の神社としてこの地を見守ってくださっております。
お参りの際は、本社、向かって左に進みますれば、この鳥居。
この先に玄蕃稲荷がございますれば、ぜひ、お参りのほどを。

<終>
2015/09/08
前編はこちら。2015/08/30桔梗ヶ原ものがたり2前編はこちら2015/08/28桔梗ヶ原ものがたり 1かつて戦場であった桔梗ヶ原。幾多の開拓計画がとん挫したあと、その大地は、その地についえた命の数を超えて人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。…
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さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
桔梗ヶ原がひとつの区として独立する前では、この地は平出と床尾に分散されておりました。
いきおい平出と床尾の衆は、なにかとライバル意識が働いて、小競り合いがおおございました。
それをおさめたのが、桔梗ヶ原神社でございます。
桔梗ヶ原神社は大正15年に建立されましたが、それ以前には玄蕃稲荷の小さな祠がぽつんと芝草の上にあるだけでした。
この祠は当時平出の地籍でありましたので平出の衆が祭典を行っていました。
あるとき、親睦をはかることを目的としてこの祭りに平出、床尾の衆が双方寄り集まって酒宴を張りましたところ、酔いが進むにつれ日頃のうっぷんがわき出でて。
とうとう乱闘騒ぎになる始末。以来床尾の衆はこの祭りにいっさい足を運ばなくなる事態に。
子どもらは、境を関係なくまつわって遊んだものでございますが、喉が乾けばにごり水といえど井戸の水に手を伸ばします。
それを「床尾の水を飲むじゃねえ!」 と大人にまくられたこともあったわね、との思い出話も御年配よりお聞きしました。
入植者はその境界によって平出、床尾に分散されておりましたので、
内心は「困ったねぇ」「一緒に頑張って開墾した仲間なのにねぇ」とその争いを憂いておりました。
そうしたこともあってか、大正12年、分断されていた桔梗ヶ原は、平出、床尾からそれぞれに離脱し、単体で桔梗ヶ原区とあいなりました。
がしかし、わだかまりはまだくすぶり、対立意識は残っておりました。
それを一掃したのが、桔梗ヶ原神社の建立でございます。
当時の資料には、その対立を緩和するためにも神社の建立が不可欠との、顔役たちの想いが強く書かれております。
果樹生産地として、作神が必要と篤志が建立に尽力を図ったことにより、
この農村地帯を一体とする神様をまつる神社となり、こまかな地籍を関係なく自然とみながお参りするようになり、ともに祭典を行うようになりました。
そして、神社建立は平出の衆が、深層井戸の掘削は床尾の衆が受け持ち、桔梗ヶ原として独立した移住の民を隣人として改めて受け入れてくれたのでございます。
その後は、もともとは移住者の集まり、土着の古いしきたりやしがらみのない開拓民のまちとなった桔梗ヶ原は、その開拓魂ととともにさらなる発展を遂げてまいりました。
前例びいきをもたぬ開拓者ならではの冒険心、やってみてダメならこだわらずに次!そのこだわりのなさが功を奏したわけでございます。
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桔梗が原神社には、生産の神とともに、今も玄蕃の丞の祠がちゃんとおいでなさいます。
一昨年には、駅前に設置されておりました玄蕃狐の石像も寄贈され、名実ともに、「桔梗ヶ原の玄蕃の丞」の神社としてこの地を見守ってくださっております。
お参りの際は、本社、向かって左に進みますれば、この鳥居。
この先に玄蕃稲荷がございますれば、ぜひ、お参りのほどを。

<終>
2015年09月08日
桔梗ヶ原ものがたり3
前編はこちら。
「桔梗ヶ原ものがたり 3」
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない.
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
全国における果樹栽培地の成功例をみますと、どの土地もなにかひとつよい条件を持っていることが分かります。
一つも条件がそろわぬ桔梗ヶ原の地に果樹栽培が成功したのは異例中の異例、と
昭和29年に調査に入った名古屋大学大学院の教授がその調査論文を書かれております。
とはいえ、いまのように初めから一面ブドウ畑だったわけではございません。
明治39年には諏訪から入植したものが、養蚕業を広めたことでクワ畑が一時急増しましたが、
1920年(大正9年)の不況で衰退してしまいました。
また、大正にはいりまして鉄道が引かれたり、道が良くなってまいりますと、さまざまな野菜を栽培し
特にキャベツは貨物列車で県外にも出荷するほどでございました。
またヤギを多く飼い、その乳を塩尻、松本に配達販売をしていた人もあったそうです。
そうして試行錯誤をしながら、徐々に技術の進歩とともに土壌の改良がかない、
今の繁栄を手に入れていったのでございます。
とくに水の確保が一番の課題でした。
井戸はいくつも掘りましたが、なかなかに良い水が出ず、枯渇も多かったので使い勝手が悪く。
そのうちに、1人が始めてみて、おお、これはいいと、雨水をためるタンクを各家々が掘るようになり。
もっぱら井戸水よりも雨水の利用が主流を占めるようになりました。
また開花時や結実時期の遅霜も天敵で。
夜を徹して、畑のそこここに焚き火をし、霜を防いできたとのこと。
車が普及した頃には、もらいうけた古タイヤが程よくくすぶって有効だと、タイヤ火を使う農家が増え。
旧塩尻から、桔梗ヶ原を見降ろすと、その上の空が黒々と大きな柱がたつように黒煙が包んで見えたそうです。
今なら環境問題で大騒ぎになりそうおはなしです。
当時農家の子どもだった方々のなかには
「窓を閉めて寝ているのに、朝、鼻をかむと、黒い鼻水がでたものだ」とか、
「縁側をはだしで歩くと足裏が真っ黒になるので、拭き掃除をしょっちゅうさせられた」とも笑って述懐しておいででした。
さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
いろいろと小競り合いも出てまいります。
その収拾に一役買ったのが、「桔梗ヶ原神社」の存在。
以下、つぎのおはなしに。
2015/08/30
前編はこちら2015/08/28桔梗ヶ原ものがたり 1かつて戦場であった桔梗ヶ原。幾多の開拓計画がとん挫したあと、その大地は、その地についえた命の数を超えて人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。「桔梗ヶ原ものがたり」1その昔、ただ不毛の原…
「桔梗ヶ原ものがたり 3」
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない.
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
全国における果樹栽培地の成功例をみますと、どの土地もなにかひとつよい条件を持っていることが分かります。
一つも条件がそろわぬ桔梗ヶ原の地に果樹栽培が成功したのは異例中の異例、と
昭和29年に調査に入った名古屋大学大学院の教授がその調査論文を書かれております。
とはいえ、いまのように初めから一面ブドウ畑だったわけではございません。
明治39年には諏訪から入植したものが、養蚕業を広めたことでクワ畑が一時急増しましたが、
1920年(大正9年)の不況で衰退してしまいました。
また、大正にはいりまして鉄道が引かれたり、道が良くなってまいりますと、さまざまな野菜を栽培し
特にキャベツは貨物列車で県外にも出荷するほどでございました。
またヤギを多く飼い、その乳を塩尻、松本に配達販売をしていた人もあったそうです。
そうして試行錯誤をしながら、徐々に技術の進歩とともに土壌の改良がかない、
今の繁栄を手に入れていったのでございます。
とくに水の確保が一番の課題でした。
井戸はいくつも掘りましたが、なかなかに良い水が出ず、枯渇も多かったので使い勝手が悪く。
そのうちに、1人が始めてみて、おお、これはいいと、雨水をためるタンクを各家々が掘るようになり。
もっぱら井戸水よりも雨水の利用が主流を占めるようになりました。
また開花時や結実時期の遅霜も天敵で。
夜を徹して、畑のそこここに焚き火をし、霜を防いできたとのこと。
車が普及した頃には、もらいうけた古タイヤが程よくくすぶって有効だと、タイヤ火を使う農家が増え。
旧塩尻から、桔梗ヶ原を見降ろすと、その上の空が黒々と大きな柱がたつように黒煙が包んで見えたそうです。
今なら環境問題で大騒ぎになりそうおはなしです。
当時農家の子どもだった方々のなかには
「窓を閉めて寝ているのに、朝、鼻をかむと、黒い鼻水がでたものだ」とか、
「縁側をはだしで歩くと足裏が真っ黒になるので、拭き掃除をしょっちゅうさせられた」とも笑って述懐しておいででした。
さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
いろいろと小競り合いも出てまいります。
その収拾に一役買ったのが、「桔梗ヶ原神社」の存在。
以下、つぎのおはなしに。
タグ :塩尻市桔梗ヶ原
2015年08月30日
桔梗ヶ原ものがたり2
前編はこちら
+++++++++++++++++++
民の命を救う薬草の栽培は長く続き大正の初めまで残っておりました。
さて、みそぎを終えた桔梗ヶ原の地には、明治に入っていよいよ開拓の手が入ることとなってまいります。
まずは、明治2年に平出村から単身で桔梗ヶ原へ移住し開拓を始めた田中勘次郎
続いて藤原義右衛門(ぎえもん)
さらに里山辺から入植した豊島理喜治は20種余りのブドウ3,000本を植えました、これが当地におけるブドウ栽培の始まり。
明治41年には、諏訪地域から入植した小泉八百蔵がコンコードの栽培を開始。山梨から学んだ「棚造り」を導入。
さらに平野村(岡谷市)から入植して果樹栽培を始めた林五一は、1918年(大正7年)から本格的にワインの醸造を開始することとなりました。
次々と外から入植者が入ってくることができた背景には、
お国の政策で分割払い下げを受けた平出や床尾の所有者が、
おうように、この土地を入植を希望する人たちに売り渡してくれたことに起因します。
当時の入植者の名簿を見ますとそのほとんどが近隣の村ではなく、少し離れた土地の人々。
諏訪辺りからが多かったようです。
地元のものは長らく開墾がかなわなかった不毛の土地、「無用の長物」と思っていたのかもしれません。
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない、
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
その紆余曲折は、また次回。
つづく
2015/08/28
かつて戦場であった桔梗ヶ原。幾多の開拓計画がとん挫したあと、その大地は、その地についえた命の数を超えて人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。「桔梗ヶ原ものがたり」1その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく…
+++++++++++++++++++
民の命を救う薬草の栽培は長く続き大正の初めまで残っておりました。
さて、みそぎを終えた桔梗ヶ原の地には、明治に入っていよいよ開拓の手が入ることとなってまいります。
まずは、明治2年に平出村から単身で桔梗ヶ原へ移住し開拓を始めた田中勘次郎
続いて藤原義右衛門(ぎえもん)
さらに里山辺から入植した豊島理喜治は20種余りのブドウ3,000本を植えました、これが当地におけるブドウ栽培の始まり。
明治41年には、諏訪地域から入植した小泉八百蔵がコンコードの栽培を開始。山梨から学んだ「棚造り」を導入。
さらに平野村(岡谷市)から入植して果樹栽培を始めた林五一は、1918年(大正7年)から本格的にワインの醸造を開始することとなりました。
次々と外から入植者が入ってくることができた背景には、
お国の政策で分割払い下げを受けた平出や床尾の所有者が、
おうように、この土地を入植を希望する人たちに売り渡してくれたことに起因します。
当時の入植者の名簿を見ますとそのほとんどが近隣の村ではなく、少し離れた土地の人々。
諏訪辺りからが多かったようです。
地元のものは長らく開墾がかなわなかった不毛の土地、「無用の長物」と思っていたのかもしれません。
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない、
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
その紆余曲折は、また次回。
つづく
タグ :塩尻市桔梗ヶ原
2015年08月28日
桔梗ヶ原ものがたり 1
かつて戦場であった桔梗ヶ原。
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。

「桔梗ヶ原ものがたり」1
その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。
桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。
が、しかし。
いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。
点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。
本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。
桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。
その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。
ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。
実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。
この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。
まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。
さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。
ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。
以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。
あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。
が、しかし。
幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。
当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。
戦場として多くの命がついえたこの土地は、
その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。
つづく
(この物語は塩尻市桔梗ヶ原区が3年後、開拓150周年を迎えるにあたり、古い文献より掘り起こし語りに構成した台本です。)
(作成者 朗読士 池内のりえ)
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。

「桔梗ヶ原ものがたり」1
その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。
桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。
が、しかし。
いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。
点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。
本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。
桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。
その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。
ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。
実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。
この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。
まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。
さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。
ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。
以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。
あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。
が、しかし。
幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。
当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。
戦場として多くの命がついえたこの土地は、
その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。
つづく
(この物語は塩尻市桔梗ヶ原区が3年後、開拓150周年を迎えるにあたり、古い文献より掘り起こし語りに構成した台本です。)
(作成者 朗読士 池内のりえ)
タグ :塩尻桔梗ヶ原
2015年08月23日
チャップリンのスピーチ
今朝、畑側の窓を開けたら葡萄の葉緑の上一面に大量の白い蝶がひらひらと舞っていました。
妖精の国に迷い込んだような錯覚を覚えました。
そして、その静かな風景を見ながら、なぜか、この激しい演説が脳裏に。
チャップリンの言葉たちが浮かんできました。
『君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。 愛されない者だけが憎むのだ。』

私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」。
私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。
憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。
決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。
兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。
君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。
そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。
君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。
君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。
愛されない者だけが憎むのだ。愛されず、自然に反する者だけだ。
兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。
『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。
一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。
君たちの中になんだ。君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。
君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。
だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。
皆でひとつになろう。
新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう。
そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らを嘘をつく。
約束を果たさない。これからも果たしはしないだろう。
独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。
今こそ、約束を実現させるために闘おう。世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。
理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。
兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。
妖精の国に迷い込んだような錯覚を覚えました。
そして、その静かな風景を見ながら、なぜか、この激しい演説が脳裏に。
チャップリンの言葉たちが浮かんできました。
『君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。 愛されない者だけが憎むのだ。』

私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」。
私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。
憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。
決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。
兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。
君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。
そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。
君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。
君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。
愛されない者だけが憎むのだ。愛されず、自然に反する者だけだ。
兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。
『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。
一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。
君たちの中になんだ。君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。
君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。
だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。
皆でひとつになろう。
新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう。
そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らを嘘をつく。
約束を果たさない。これからも果たしはしないだろう。
独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。
今こそ、約束を実現させるために闘おう。世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。
理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。
兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。
2015年07月29日
今来たこの道かえりゃんせ



夏は日が長い。
単身赴任の父が月に1,2度帰宅する日曜日は、早めの時間に銭湯に連れて行ってくれた。
風呂帰りはまだ夕焼けで、うちに帰れば夕飯。 銭湯への行き帰りが父と手をつなげる唯一の時間だった。
♪ あのまちこのまちひがくれる~日が暮れる~今来たこの道、かえりゃんせ~かえりゃんせ。。
夕焼けを見ながら、いつも父が歌い歩いた。左手で私の右手を軽く握り、前後に振りながら。
一緒にお風呂に入れた時代だから、6歳くらいまでの話だ。
その後、父と手をつないだ記憶は、ない。
夕飯の晩酌は日本酒。お酒を飲む人は、あまり量を食べないと知った。
気にいったつまみを、箸で少しずつつまみながら、ゆるやかに美味しそうに猪口を傾けていた。
大人の時間に入った父に、子供が近づくことはなかった。それがルールのような気がしていた。
大人になって恋をすると、手をつなぎたがる女に育った。なによりも、それができることが、恋のだいご味だった。
相手が飲み始める時間には、少し離れて、そばに控えた。
と考えると。それは、はたして、恋だったのか。郷愁だったのか。
私の右手は、いまも、あたたかい大きな左手を、恋しがっている。