2015年08月28日

桔梗ヶ原ものがたり 1

かつて戦場であった桔梗ヶ原。
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。



「桔梗ヶ原ものがたり」1

その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。

桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。

が、しかし。

いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。

点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。

本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。

桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。

その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。

ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。

実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。

この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。

まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。

さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。

ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。

以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。

あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。

が、しかし。

幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。

当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。

戦場として多くの命がついえたこの土地は、

その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。

つづく

(この物語は塩尻市桔梗ヶ原区が3年後、開拓150周年を迎えるにあたり、古い文献より掘り起こし語りに構成した台本です。)
(作成者 朗読士 池内のりえ)
  


Posted by のんたん  at 00:30古書

2013年08月20日

意訳 税所敦子刀自(9)完結

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2013/08/20
意訳 税所敦子刀自(8)
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さて。

こうして、50過ぎからの人生を宮仕えにささげたあつこ、幾年月、実に26年の精勤を果たしたが、

さすがに年を取り、床に臥せる日も出てきた。

天皇はあつこの身を心配し、よかれと思って見舞いの使いに

「出仕御免としてあげるから、しっかりと養生し、出てこられる体調の時だけ顔を見せてくれればいいよ。」と言伝をした。

するとあつこは、「もう出てこなくていいと言われてしまっては、今日から私は食事を摂りません。お役にたてない身で生きながらえることは

死に等しいことです。このまま朽ち果てまする。」と、神妙に答えた。

この伝言を伝えると天皇は、大笑いし。

「では、早く治ってきておくれ。おまえのかわりはない。これは命令だ、早く出てこい。」と伝えなさい、と使者に言い渡した。

あつこの気性をよくわかった天皇の情け。

年を取り病床で気が弱った女の一種のだだをこねた格好のことばに、そんな言いようで信頼に変わりがないことを伝えたのだ。


その言葉を賜り、あつこは、大いに喜び、気力を振り絞り出勤を果たした。

だが、厳寒の2月、いよいよ体調が悪くなり、初めて早退をした。

家で控えていた娘の徳子は、母の異変に急ぎ医者を呼んだが、医者は「もう長くない」ことを告げ、一族はあつこを囲んで

2昼夜看病を続け、その最期を看取った。

いかにもあつこらしい最期。いきなり亡くなってしまっては、身内のものに後悔が残る。

疲れが度を越さぬ程度に看病の時を与え、言い残す言葉もそれぞれに渡し、旅立ちの時を選んだ。

駆けつけた信頼厚き後輩の局には、改革が及ばなかった内儀秘密の悪行事の全廃を頼み、さらなる風通しの良い内儀への道を託した。

下の位のものたちに隠密に伝承が続いている、新参舞のことである。

新人の針子たちに、体検めと称した湯文字一枚で先輩たちの前で踊らせる悪習が

まだ改まらないのが最後の気がかりだったのだ。

そして、あつこは自身の葬儀の手順を事細かに家のものに言い置いて、念仏を3編唱え、静かに息を引き取った。

あつこの逝去を、天皇皇后は、身内のことのようにお嘆きになり、正五位の位を与え、立派な墓も直接にご指示し建ててくださった。


その戒名、『英心院戒味香雄大姉』(えいしんいんかいみかうゆうだいし)

享年76歳。

多くの人に惜しまれ、泣かれ、葬式は盛大に営まれた。

各界から弔辞が山のように寄せられて、冊子も作られた。

皇后は、後年まであつこの功績をたたえられるよう、碑を作られた。

今も、あつこの墓には、人々の花が絶えないという。

税所敦子刀自。

その生涯は、人のために生き、その想いで己を生かし、けしておごらず、

つねに愛に満ちたものであった。











  

Posted by のんたん  at 22:27古書

2013年08月20日

意訳 税所敦子刀自(8)

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2013/08/19
意訳 税所敦子刀自(7)
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2013/08/19意訳 税所敦子刀自(6)前編はこちら2013/08/19意訳 税所敦子刀自(5)前編はこちら2013/08/17意訳 税所敦子刀自(4)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(3)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(2)前編はこちら2013/08/15意訳 税所敦子刀自(1)このところ、古書づ…



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(8)

さて。

天皇が東京に移られたとき、天皇は17歳。皇后は3歳年上の姉さん女房であった。

天皇は御身の若さを心得られ、学びに精進をされていた。

あつこは、天皇陛下の御製の拝写、皇后、皇太后陛下のお歌の拝写に加え、女官たちに古典文学の講義、歌文の指導を担った。

そのほかにも、こまごまとした雑用をこなし、部下の相談にもよくのっていたので、あつこは私時間をほとんどもたぬ多忙な日々にあった。

食事のときすらも、大膳職(だいぜんしき)からお上の食事の様子を聴き、

食が進まなかった旨を聴く時は、自身も食事を控え、同じ体調をもってお上のご様子を知ることに務めた。

また、月のうち3日は、水垢離をとり、火のものを断ち、生米を噛んで神仏を念じ両陛下のご安泰を祈った。

このように影となり日向となり忠義を尽くすあつこに、皇后のみならず天皇陛下も、あつこを大事に思い、

ときに、あつこに給仕をさせ、小皿を用意し、「これはおいしい、食べてごらんよ。」と御身の食事からわけあたえることもあった。

このような有難い扱いに、あつこはさらに忠義の心を厚くし、さらなる滅私にて仕えた。

この時代は、まだ皇室は一夫一妻制度になっておらず。

天皇にも、皇太后である母と、生母である母がいた。

それが当たり前であったので、天皇自身も、何人かの「側室」がいた。

皇后には懐妊の兆しなく、あつこは、皇后の心痛を察すると、おいたわしく、より心を添わせた。

側室に子が産まれると、正室である皇后はお祝いとお褒めを側室に渡さねばならない。

微塵も悋気や、自身の落ち込みを見せてはならじと、正室としての心得を、心を尽くしてお支えした。

おおらかに、真にありがたく喜ばしくねぎらいを見せる皇后に、側室たちは敬意をもって接した。

なかには、子をなした冗長に、皇后を軽んじる行いを見せる側室もあったが、

その挑発に乗ってはいけませんとあつこの指南があったので、皇后は同じ土俵に上がることはせず、

まさに女道の誉と讃えられる皇后であられた。

こういったレクチャーや、日々の祈念は、過去、あつこが体験してきた島津家のお家騒動や近衛家での経験から体得してきたお家安泰のための心得であり、

これまでの人生経験は、まさに今こうして宮様にお仕えするための「必然」であったのであろう、とあつこはわが身に起きてきた波乱をポジティブにとらえ、神仏に感謝した。


また、年下のものからの学びにもあつこは素直であった。

あつこの入宮の2年前、勤王儒者の娘が書物係として奉公に上がっていて、歌に秀で、天皇皇后の覚え厚く、

歌がうまいので「歌子」という呼び名を授かっていた。

やはり、公家出身ではないので、周囲のいじめが激しかったが、この齢18の娘は、若さに頼んであつこと真逆な方法でそのいじめを回避していた。

柳に風を貫いたあつこの、真逆、、さわぎたて、である。

「ちょっと聞いてくださいよ!。また、こんないじめ方をされましたの、え~ん、ひどいわぁ。」

ことさらに嘆き騒ぎ立てるので、お上の耳に届くのを恐れ、女官たちは、この娘をいびることを手控えていた。

新人類登場に、女はいじめられても我慢するもの、という感覚しかない女官たちにはカルチャーショックであったようだ。

内儀のなかにも、時代の波が入り始めていた。

この娘は、明朗快活、歯に衣着せぬ物言いで、公家でない身分を卑下せず「だからなに?」と頓着せず。

ときにあつこの歌と自分の歌を較べられることにも、快感を隠さなかった。

その言動は目に余ることもあったが、あつこは苦笑しながらも彼女を認めていた。

あつことは違った視点から内儀の改革に一役買っていた。

25歳のおり、皇居を退き、嫁入りした。が、30歳になった頃、夫が早逝。アル中だったのだ。

ついてない。

だが彼女の才を重んじた政府は出資して彼女に華族女学校を任せた。

生徒募集の営業に御所にきた彼女は、さっそうと洋装のいでたち。

当時、紫色は最上位のものしか身につけてはいけない決まりだったのだが、

「洋服なら関係ないわよね♪」と、涼しい顔で現れた。


破天荒に見える彼女の言動だが、自らが広告塔、彼女が語る外の世界の移り変わりや下世話ネタに

女官たちは色めき立ち聴き入り、彼女の出入りを心待ちにするようになる。それは動く女性週刊誌の様相。(笑)

そして時代の流れについていける婦女子を育てる学校、親戚縁者の子女にぜひご推薦をと、営業をし、成果を大いにあげた。


その営業の折に、彼女はハイネの詩をあつこに見せに来た。

その詩をそらんじる歌子の朗読を聞き、あつ子は驚いた。

西洋の詩の技法の、簡潔でありながら想いを十分に表した斬新さ、素直な表現。

ああ、文学世界のなんと素晴らしきことよ。

聴くと、彼女は女学校を運営するに当たり、フランス語、ドイツ語、英語を猛勉強したという。

あつこは、娘より年下の彼女に教えを乞い、それらの語学を学び始めた。

また、年は違えど、ともに和歌を愛し、公家以外の出所で内儀で苦労し、夫にも先立たれた共通点から、

彼女はあつこに内面をさらけ出して甘えてきた。

あつこは、こっそり彼女の重大な不始末を後始末してやったこともあった。

あつこの語学は、のちに日常会話には困らないところまで上達したというからすごい。老いの学びレベルではなき向上心。

こうしてあつこは、生涯、学びの中に身を置いて生きていた。


つづく




  

Posted by のんたん  at 12:04古書

2013年08月19日

意訳 税所敦子刀自(7)

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2013/08/19
意訳 税所敦子刀自(6)
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2013/08/19意訳 税所敦子刀自(5)前編はこちら2013/08/17意訳 税所敦子刀自(4)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(3)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(2)前編はこちら2013/08/15意訳 税所敦子刀自(1)このところ、古書づいている。まだほかにも書きたい題材があるが、今…


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(7)

さて。

明治維新後、男性の社会はその身分にとらわれず、才能のあるものを採用する道が拓けたが、後宮にあっては旧態依然、

縁故の公家娘が世間知らずのまま女官となり、年を重ね内儀に務める世界が残っていたので、優美でしとやかではあるものの、

「女特有」の世界観が蔓延し、澱んでいた。

宮中入りにあたり、あつこは、これまでの、控えて控えて、信任を得るという身の置き方では思う仕事ができないと踏んだ。

ましてや、京育ちとはいえ、薩摩に下った武家の出のわが身が、いきなりの大出世で乗り込むのである。

女官たちの中でも権掌侍(ごんしょうじ)になれるものは、ほんの一握り。

あまたの女官たちの反感は、すさまじいものであろう。

わが身が軽く扱われるということは、求めてくださった皇后の御名を辱めることにつながる。

あつこは、持ち前の知力と所作の完成度に磨きをかけ、宮中言葉も完璧にマスター、

身にまとうものも、年相応よりいささかに地味にかつ、野暮にならず、

錦織育ちのあつこの真骨頂、その審美眼で質素ながら着道楽京都人の目にもさすがと納得させる通なものをそろえ

宮中入りをする。

もとより、日々のお勤めのほか、薙刀などたしなみ、足腰、背筋、年に似合わない筋力を保っていたあつこ、

その立ち姿歩き姿は、こまごまとした仕事は下女たちにまかせっきりでろくに筋力もない女官たちの振る舞いとは一線を画し。

雅でかつ威厳にあふれ、対峙したものは思わず、腰を低くして身を引きたくなる所作を貫いた。

歯を見せて破顔するあつ子特有の快活な笑顔も封印、唇を閉じ目は笑わぬ微笑を持って京都の女官になりきった。

それでも、このあつこを辱めようと、廊下ですれ違う折、わざとその着物の裾を後ろから踏んで転ばせようと試みた女官がいたが、

気配感ずるに敏感なあつこのこと。その女官には目もくれず、着物の裾からその足を離すまで、微動だにせず、立ち止まった。

あつこの威厳とその無言の威圧にわが身が恥ずかしくなった女官は、さっと控え、この瞬間に力関係が定まった。

明治皇后は、かつて憧れであったあつこが宮中入りして自分に仕えてくれることになり、内心はたいそう喜んであつこを迎えたが、

心得のある御方であったので、それは二人だけの間だけでのこと、皆の前では、けして特別なお声掛けなどはせず、他の女官と平等に扱った。

二人は、ときに人知れずアイコンタクトで、心を通じ合った。

女官たちはあつこの力量にぐうの音も出ない。責めどころを、あつこの出所に持っていった。

「徳川さんからまつりごとを奪い返して天皇さんの御代にしてくれはったのは、よろしうおすえ。けど、都を東京に移しはったのは気に入りまへんな。あかんことをしてくれはったとみぃんなサツマを恨んでますのやで。」

お上の左右に侍する人々が公家一族の特権であったものを、田舎の野卑なものたちが我が物顔で出仕している、その恨みを

「あなたは京育ちだからいい(許せる)けれどね」

「新参者だから、わからないだろうけれども」 

と前置きをしては、ことあるごとに皮肉にして投げつけた。

また、皇后は天皇と仲睦まじく、姑である皇太后にも嫁として心を尽くしていたし、皇太后もこの嫁を可愛く思っていたにもかかわらず

取り巻く女官たちは、皇太后側、皇后側ともにプライド高く、せげみ合い、火のないところに煙を立ててはゴシップを作り、もて余すエネルギーを発散させていた。

内儀の様子をあらかた把握したあつこは、時の内閣総理大臣、伊藤博文に内々に面会を申し込まれ、

墓参の折に乗じて人知れず会見を果たす。

どうだろう、内儀の改革は果たせそうですか、と問う伊藤公。

「内儀の改革はすこぶる重大で一筋縄にはいきません。

なまはんかな覚悟ではとん挫します。失礼ながらあなたはその覚悟がおありですか。」

厳然として問うあつこの気迫は、のちに伊藤公に 「あんな、えらい婦人に初めて会った。」と言わしめた。


あつこは、女官たちには威厳を保ちつつ、その下に使えるものたちには、温かな心配りを見せた。

無理難題、威張られ慣れていた他の女官の部下たちは、いつしか、あつこの下で働くものをうらやましがるようになる。

なにくれとなく、あつこに相談しに来たり、教えを乞うようになり、あつこは公務のほか寝る間を削ってその者達の相手をし、正しき道を説いた。

女官たちのいじめには柳に風をつらぬきながら、下の者の意識をまず作った。ボトムアップの改革である。


下の者どもの意識が変わると、それまで同調して意地悪づいていた部下がついてこないので己だけが悪者のようで居心地が悪い。

女官たちは、あからさまな下卑た態度をひっこめるようになった。



つづく


(※ 文中、女官の京ことばは、「平井秋子著 楓内侍」より引用させていただきました。)








  

Posted by のんたん  at 23:31古書

2013年08月19日

意訳 税所敦子刀自(6)

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2013/08/19
意訳 税所敦子刀自(5)
前編はこちら

2013/08/17意訳 税所敦子刀自(4)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(3)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(2)前編はこちら2013/08/15意訳 税所敦子刀自(1)このところ、古書づいている。まだほかにも書きたい題材があるが、今度の仕事でかかわる税所敦子氏の伝記から読んでい…



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(6)

さて。

これまで、あつこの人柔術は、相手の身分、立場によらず、すべからく、下から攻めてその信を得てきた。

これはあつこの策略ではなく、人柄によるもので、自分を控えて人を生かす、人の喜ぶことを己の喜びとする本分が

その道を選ばせていた。

たとえば、薩摩入りした当初、薩摩の家の下女たちは、薩摩女の屈託ない豪傑ぶりはよいものの、細やかな心配りには欠け、

おおざっぱ。大家族故、食事の後の茶碗を洗えば、残飯が流しに多くたまった。それを当たり前のように捨てていた。

「もったいない」精神でいきてきたあつこには、それに心痛めた。ふつうなら苦言でいさめるところ。

ところがあつこは、その残飯を集め、さらっと洗い、我が食事としていただいた。他のものには勧めず、自分だけで食べつづけた。

これが台所の片隅でひそかにというのであれば「残飯を食べる卑しき行い」になる。

だが、あつこはその残飯を、うやうやしく器に盛り、

炊き立てのご飯をいただくがごとく、美しい所作にてありがたくいただいたので、下女たちは我が行いにはたと振り返り、

米粒一つといえど、大切な財産であると思うようになり、あつこの倹約に心を添わせるようになった。


近衛家に嫁いだ貞姫の老女となった時も、地元から連れてきた侍女たちと、近衛家の侍女たちに、派閥別れが起きぬよう、

薩摩と京のバイリンガルあつこはその間に入り、どちらの気持ちにも心を添わせ、わかるわかると共感をわたし、

伝えるべき苦言も、双方の相手を立てた超意訳(笑)を持って相手に伝える道に腐心したので、

習慣の違いや、言葉の行き違いからくる軋轢を防いできた。

このように、誰に対しても、下手(したて)下手に出てその行いを持って、模範を作り感化によって人が動くという形をとってきたあつこであったので、

彼女に接する者たちは、みな、最初はあつこをなめてかかり、そのうちに敬服に代わり、従うようになる、という道を経た。

だが、そういった「あつこ道」ともいうべき手腕も、なかなかに通じない世界があった。



時は、明治。

あつこと旧知の左院の少議官、

高崎男爵が、時の侍従長、東久世道禧伯に声をかけられる。

この男爵、かつて、あつこの教え子(和歌の添削をしてもらっていた)であった若者が、いまや明治政府に務める身となっていたのだ。

「皇后陛下は折に触れて侍従や女官たちに歌のお相手をさせるのだが、いかんせ、皇后のお相手になれる力量の者がおらず。

だれか、しかるべき人物に心当たりはないだろうか。」

男爵は、我が意を得たりと膝を打ち、「いますいます!最適最高の人が!」と進んで、あつこのすばらしさを力説。

伯、大いに喜んで帰り、会議を経て推挙の道を作り、男爵に中継ぎを頼んだ。

男爵は、あつこの人格と才能に日頃から傾倒していたので、いかにもこのままあつこが埋もれることを惜しいと思っていた。

このはなしは、あつこを大いに喜ばせるだろうと、勢い込んであつこを訪ねる。

ところが、あつこは、びっくり仰天、旧知なる男爵様のお言葉ならばたいていのことならば仰せに背くことはありませんが、こればかりはお受けできません。と辞退する。

最初は謙遜と思って言葉を換え、再三承諾を試みるも、あつこの意は変わらず。

「ご承知のとおり、わたしは夫に先立たれて鹿児島に下り姑に仕えて一生を終える気でおりました。

けれど、藩主斉彬公の命により若君のおもり役に入り、不幸にしてその任を果たせず、

いよいよ初心を果たそうと思ったところに再び召し出されて老女となり京へきて、今日に至った身。

もはやこれが宿世の縁と心得てこのお屋敷で静かに身を終える所存にて、なにも望みはないのです。」

どうあっても動こうとしないあつこに、男爵は作戦を変える。

それまで紳士であった男爵は、いきなり膝を立てあつこに詰め寄り声を荒げる。

「我が皇国の臣民にあって、この申し出を受けぬとはいかがなることか!

あなたが大恩ある亡き斉彬公が朝廷の御ために家を顧みず身を忘れてお尽くしになっていたからこそ、

このよう御代となったのだ。その道理もわからず、自分のことばかり考えて辞退されるというか。

見損なったぞ!こんな人だと思わなかった!もう金輪際、絶交だ!」と吐き捨てて、その場を立とうとする。

もちろん、こうまで言えば、あつこが黙っているはずがないともくろんでの一芝居。

思った通り、あつこはあわてて男爵の袖を控えて

「お待ちください!(汗)いかに私が愚かであろうと、どうして大義を忘れませう!」

本音を語る。

「わたしは天性拙くして、才短く、學浅く、その上年寄りにございます。

今更世に出ましても、恥をさらすばかりです。推薦してくださったあなたの名を汚すことになっては申し訳が立ちません。

ならばお受けしないのが一番と思ったのです。お声掛けは本当にうれしかったのです。」

これ、謙遜ではなく。

学び深きものは謙虚なり、のことばどおり、あつこは学べば学ぶほどその先にある未知に手が届かぬことに自分を小さく感じ、

ほんとうに、「わたしってまだまだだわ、この年になっても何にも知らない。」と自分を評価していたのだ。

だからこそ、どんな立場に上がっても居丈高になることなく、控えて頭を垂れて生きていたのだ。

男爵は、「やってみないで断るのはもったいない。あがってみて、ダメなら訳を話してお暇したらいいのだ。それなら納得してもらえるでしょ?」

と今度は親身に説得をし。

そして、密命めいて、声を潜めて「ここだけのはなしですよ」と話してきかせる。

「実は、宮中においては、内儀(奥向きの女たちの園)の扱いに苦慮しておられるのです。

京からついてきた女官たちは外の世界を知らない、京都至上主義の世間知らずのおばさんの集まりでたちが悪い。

関東に交わろうとせず、京を恋しがり、あの頃の贅をそのままに貫こうとする。学ぼうという姿勢もない。

いかに皇后のお人柄がよくても女官たちがあれでは

皇室の未来によくない。『皇后がおかわいそうです』。だから、あなたの出番なのです。どうか・・・。」


このことばにあつこは、ぴきっと心が奮い立つ。

その昔、京であつこが父が亡くなった後、嫁に出るまでの間、女所帯を支えるため公家の子女に歌の手ほどきをしていた。

その中に、控えめで聡明な気質で、よい歌を作る幼い娘子がいた。

その娘子こそが、今はときの明治皇后とおなりあそばせていたのだ。

あのお優しいご気質なれば、女官たちが我が物顔になるのも、たしかに。。。。


と思うと、さぁ、あつこの「人の役に立ちたい」パッションが着火した。

「まいります。」

かくて、あつこ、51歳。

権掌侍(女官の中でも直接に天皇皇后にお仕え出来る身分)に任ぜられ、

女官名を「楓の内侍」と授かり、いよいよ宮中に出仕することとなる。


次回、女官たちの巣窟へ。ひえ~~っ。























  

Posted by のんたん  at 10:07古書

2013年08月19日

意訳 税所敦子刀自(5)

前編はこちら

2013/08/17
意訳 税所敦子刀自(4)
前編はこちら

2013/08/16意訳 税所敦子刀自(3)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(2)前編はこちら2013/08/15意訳 税所敦子刀自(1)このところ、古書づいている。まだほかにも書きたい題材があるが、今度の仕事でかかわる税所敦子氏の伝記から読んでいる。賢女としてのエピソードには事欠かないが、も…



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(5)

さて。

島津藩主斉彬公、後継ぎの哲丸君の相次ぐご逝去で、島津家は斉彬公の弟、久光公の子、又二郎君、のちの忠義公に家督が移り、
久光公はその後見となり実権を握った。

数年後、久光公は、一族から養女にした貞姫を、京の近衛忠房卿に嫁がせることとし、その後見の老女(侍女たちの長)を、誰にするか、老中たちに諮った。

老中たちは、京育ちで所持万端心得がある、あつこを推挙。

兄とはいえ腹違い、兄弟仲のあまり良くなかった斉彬公気に入りで、哲丸君の守り役でもあったあつこの推挙に、久光公ははじめは難色を示した。

が、当の貞姫がぜひにもとあつこを望み、また老中たちも彼女ほどの忠義ものほかにあらずと重ねてすすめることから、

老中はあつこで、という話にまとまった。

あつこは、その数年の間、税所の家にあって、姑に孝養をつくし、その最期を看取った後だった。

のちは、供養の人生と心得、世に出ることを控えていたので、このはなしを、おいそれと受けられる心境にはなれず。

堅く辞退を申し上げたところ、あつこを望む貞姫から、

「あなたにそばに居てもらいたいのが一番だけれども、あなたの娘、徳子さんに私の友達としてついて来てほしいのです。どうぞ娘さんと一緒に京へ来てくれませんか。」との申し出があり。

幼き頃、重い疱瘡にかかりその痕が残る徳子であったので、あつこも徳子の行く末を案じていたところ、それを察した貞姫の慈愛の申し出に心を打たれ、深く感謝し、娘ともども、貞姫に仕え、ふたたび京に上る決心をした。

このとき、貞姫、18歳、娘徳子14歳。あつこ39歳。

あつこは、おさなき徳子を連れて薩摩入りした日から数えてちょうど10年で、二度とふたたび帰ることはないと思っていた京へ、錦を飾る形で、帰ることとなった。

近衛家にはいったあつこは、千代瀬と呼ばれるようになった。

貞姫への忠義は他に類を見ない、深く強いものであり、よくご教育にも励んだので

貞姫は、京にあっても天晴貴婦人の模範と讃えられる立派な姫君になった。

当初、貞姫は心根が優しいが幼く、田舎育ち特有のおっとりした気質であったので、京の姫たちの劣らぬよう、傷つかぬよう、

あつこは、これまでの知識を総動員して短期間で貞姫の教育に成果を上げた。

あつこの学習指導力は、ここでもいかんなく発揮されたのである。

また。近衛家の老女は勤王で有名な女傑、村上という夫人であったが、奥方の老女としてはいったあつこは、彼女をことごとくよく立て、信頼を勝ち得、ともに協力して近衛家を繁栄させた。

この繁栄は、あつこが、監督者という立場でありながら、命令ではなく自ら率先して動き、まったく偉ぶったところがなく、

いつも真心と笑顔で下の者にも人として尊重した態度で接していたため、とかく嫉妬猜疑の多くなりがちな、侍女世界の空気を

澱ませなかったことに起因していた。

自然とみな、あつこに感化され、近衛家の内所は、和気藹々とし、いじめや派閥が生まれなかった。


そして嫁いでから10年。夫亡き後、光蘭院と號すようになった貞姫は、あつこに守られながら静かに暮らした。


貞姫が夫に先立たれたのは、あつこと同じ28歳の時。


そのせつなさを身を持って知っていたあつこは、さらに彼女に忠義を奉げ心を寄り添わせた。


その間に、大政奉還があり、東京遷都の後は、東京麹町のご本亭に移られた際もあつこは同行し、

光蘭院婦人とともに仏道を修業し、和歌の研究などにも心をいれ静かに暮らしていた。

京から薩摩へ、再び京へ、そして、明治の東京へとあつこの生活は大きく変化しながらも、

今、その身は静かに、終わろうとしていた。


かに見えた。

が。

当時、50を迎える齢ともなれば、そろそろ引退?隠居部屋で人の手を借りて暮らし始めるものを多かったのだが。

新たなる道が、さらにあつこを引っ張り込んでいく。

あつこは、なんと、「新参者」と、扱われる身に!

いけずにつぐ、いけずの世界に身を投じ。

さすがに、優しいばかりじゃいられない?



つづく











  

Posted by のんたん  at 01:12古書