2013年08月19日
意訳 税所敦子刀自(5)
前編はこちら
**************
(5)
さて。
島津藩主斉彬公、後継ぎの哲丸君の相次ぐご逝去で、島津家は斉彬公の弟、久光公の子、又二郎君、のちの忠義公に家督が移り、
久光公はその後見となり実権を握った。
数年後、久光公は、一族から養女にした貞姫を、京の近衛忠房卿に嫁がせることとし、その後見の老女(侍女たちの長)を、誰にするか、老中たちに諮った。
老中たちは、京育ちで所持万端心得がある、あつこを推挙。
兄とはいえ腹違い、兄弟仲のあまり良くなかった斉彬公気に入りで、哲丸君の守り役でもあったあつこの推挙に、久光公ははじめは難色を示した。
が、当の貞姫がぜひにもとあつこを望み、また老中たちも彼女ほどの忠義ものほかにあらずと重ねてすすめることから、
老中はあつこで、という話にまとまった。
あつこは、その数年の間、税所の家にあって、姑に孝養をつくし、その最期を看取った後だった。
のちは、供養の人生と心得、世に出ることを控えていたので、このはなしを、おいそれと受けられる心境にはなれず。
堅く辞退を申し上げたところ、あつこを望む貞姫から、
「あなたにそばに居てもらいたいのが一番だけれども、あなたの娘、徳子さんに私の友達としてついて来てほしいのです。どうぞ娘さんと一緒に京へ来てくれませんか。」との申し出があり。
幼き頃、重い疱瘡にかかりその痕が残る徳子であったので、あつこも徳子の行く末を案じていたところ、それを察した貞姫の慈愛の申し出に心を打たれ、深く感謝し、娘ともども、貞姫に仕え、ふたたび京に上る決心をした。
このとき、貞姫、18歳、娘徳子14歳。あつこ39歳。
あつこは、おさなき徳子を連れて薩摩入りした日から数えてちょうど10年で、二度とふたたび帰ることはないと思っていた京へ、錦を飾る形で、帰ることとなった。
近衛家にはいったあつこは、千代瀬と呼ばれるようになった。
貞姫への忠義は他に類を見ない、深く強いものであり、よくご教育にも励んだので
貞姫は、京にあっても天晴貴婦人の模範と讃えられる立派な姫君になった。
当初、貞姫は心根が優しいが幼く、田舎育ち特有のおっとりした気質であったので、京の姫たちの劣らぬよう、傷つかぬよう、
あつこは、これまでの知識を総動員して短期間で貞姫の教育に成果を上げた。
あつこの学習指導力は、ここでもいかんなく発揮されたのである。
また。近衛家の老女は勤王で有名な女傑、村上という夫人であったが、奥方の老女としてはいったあつこは、彼女をことごとくよく立て、信頼を勝ち得、ともに協力して近衛家を繁栄させた。
この繁栄は、あつこが、監督者という立場でありながら、命令ではなく自ら率先して動き、まったく偉ぶったところがなく、
いつも真心と笑顔で下の者にも人として尊重した態度で接していたため、とかく嫉妬猜疑の多くなりがちな、侍女世界の空気を
澱ませなかったことに起因していた。
自然とみな、あつこに感化され、近衛家の内所は、和気藹々とし、いじめや派閥が生まれなかった。
そして嫁いでから10年。夫亡き後、光蘭院と號すようになった貞姫は、あつこに守られながら静かに暮らした。
貞姫が夫に先立たれたのは、あつこと同じ28歳の時。
そのせつなさを身を持って知っていたあつこは、さらに彼女に忠義を奉げ心を寄り添わせた。
その間に、大政奉還があり、東京遷都の後は、東京麹町のご本亭に移られた際もあつこは同行し、
光蘭院婦人とともに仏道を修業し、和歌の研究などにも心をいれ静かに暮らしていた。
京から薩摩へ、再び京へ、そして、明治の東京へとあつこの生活は大きく変化しながらも、
今、その身は静かに、終わろうとしていた。
かに見えた。
が。
当時、50を迎える齢ともなれば、そろそろ引退?隠居部屋で人の手を借りて暮らし始めるものを多かったのだが。
新たなる道が、さらにあつこを引っ張り込んでいく。
あつこは、なんと、「新参者」と、扱われる身に!
いけずにつぐ、いけずの世界に身を投じ。
さすがに、優しいばかりじゃいられない?
つづく
2013/08/17
前編はこちら
2013/08/16意訳 税所敦子刀自(3)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(2)前編はこちら2013/08/15意訳 税所敦子刀自(1)このところ、古書づいている。まだほかにも書きたい題材があるが、今度の仕事でかかわる税所敦子氏の伝記から読んでいる。賢女としてのエピソードには事欠かないが、も…
2013/08/16意訳 税所敦子刀自(3)前編はこちら2013/08/16意訳 税所敦子刀自(2)前編はこちら2013/08/15意訳 税所敦子刀自(1)このところ、古書づいている。まだほかにも書きたい題材があるが、今度の仕事でかかわる税所敦子氏の伝記から読んでいる。賢女としてのエピソードには事欠かないが、も…
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(5)
さて。
島津藩主斉彬公、後継ぎの哲丸君の相次ぐご逝去で、島津家は斉彬公の弟、久光公の子、又二郎君、のちの忠義公に家督が移り、
久光公はその後見となり実権を握った。
数年後、久光公は、一族から養女にした貞姫を、京の近衛忠房卿に嫁がせることとし、その後見の老女(侍女たちの長)を、誰にするか、老中たちに諮った。
老中たちは、京育ちで所持万端心得がある、あつこを推挙。
兄とはいえ腹違い、兄弟仲のあまり良くなかった斉彬公気に入りで、哲丸君の守り役でもあったあつこの推挙に、久光公ははじめは難色を示した。
が、当の貞姫がぜひにもとあつこを望み、また老中たちも彼女ほどの忠義ものほかにあらずと重ねてすすめることから、
老中はあつこで、という話にまとまった。
あつこは、その数年の間、税所の家にあって、姑に孝養をつくし、その最期を看取った後だった。
のちは、供養の人生と心得、世に出ることを控えていたので、このはなしを、おいそれと受けられる心境にはなれず。
堅く辞退を申し上げたところ、あつこを望む貞姫から、
「あなたにそばに居てもらいたいのが一番だけれども、あなたの娘、徳子さんに私の友達としてついて来てほしいのです。どうぞ娘さんと一緒に京へ来てくれませんか。」との申し出があり。
幼き頃、重い疱瘡にかかりその痕が残る徳子であったので、あつこも徳子の行く末を案じていたところ、それを察した貞姫の慈愛の申し出に心を打たれ、深く感謝し、娘ともども、貞姫に仕え、ふたたび京に上る決心をした。
このとき、貞姫、18歳、娘徳子14歳。あつこ39歳。
あつこは、おさなき徳子を連れて薩摩入りした日から数えてちょうど10年で、二度とふたたび帰ることはないと思っていた京へ、錦を飾る形で、帰ることとなった。
近衛家にはいったあつこは、千代瀬と呼ばれるようになった。
貞姫への忠義は他に類を見ない、深く強いものであり、よくご教育にも励んだので
貞姫は、京にあっても天晴貴婦人の模範と讃えられる立派な姫君になった。
当初、貞姫は心根が優しいが幼く、田舎育ち特有のおっとりした気質であったので、京の姫たちの劣らぬよう、傷つかぬよう、
あつこは、これまでの知識を総動員して短期間で貞姫の教育に成果を上げた。
あつこの学習指導力は、ここでもいかんなく発揮されたのである。
また。近衛家の老女は勤王で有名な女傑、村上という夫人であったが、奥方の老女としてはいったあつこは、彼女をことごとくよく立て、信頼を勝ち得、ともに協力して近衛家を繁栄させた。
この繁栄は、あつこが、監督者という立場でありながら、命令ではなく自ら率先して動き、まったく偉ぶったところがなく、
いつも真心と笑顔で下の者にも人として尊重した態度で接していたため、とかく嫉妬猜疑の多くなりがちな、侍女世界の空気を
澱ませなかったことに起因していた。
自然とみな、あつこに感化され、近衛家の内所は、和気藹々とし、いじめや派閥が生まれなかった。
そして嫁いでから10年。夫亡き後、光蘭院と號すようになった貞姫は、あつこに守られながら静かに暮らした。
貞姫が夫に先立たれたのは、あつこと同じ28歳の時。
そのせつなさを身を持って知っていたあつこは、さらに彼女に忠義を奉げ心を寄り添わせた。
その間に、大政奉還があり、東京遷都の後は、東京麹町のご本亭に移られた際もあつこは同行し、
光蘭院婦人とともに仏道を修業し、和歌の研究などにも心をいれ静かに暮らしていた。
京から薩摩へ、再び京へ、そして、明治の東京へとあつこの生活は大きく変化しながらも、
今、その身は静かに、終わろうとしていた。
かに見えた。
が。
当時、50を迎える齢ともなれば、そろそろ引退?隠居部屋で人の手を借りて暮らし始めるものを多かったのだが。
新たなる道が、さらにあつこを引っ張り込んでいく。
あつこは、なんと、「新参者」と、扱われる身に!
いけずにつぐ、いけずの世界に身を投じ。
さすがに、優しいばかりじゃいられない?
つづく
Posted by のんたん
at 01:12
│古書