2013年06月03日
遺贈 ー長文ですー
25年間。
朗読サービスを利用してくださってきた薬害による視覚障害と疾病による透析を受けておられたYさんが3月に亡くなった。
ご自分にも他人にも厳しく知識豊富で凛とした昭和の関白亭主型。対面朗読に伺うメンバーは、サービスをしにいくというより
ご指導をいただいて、勉強をさせていただいていた。話題が豊富で、未知の世界をお教えくださった。
慕っていつもYさんの対面当番を希望する者も何人もいた。
ご利用者の中でもっとも、デジタル化を強く望んでおられ、ご自身も新しい機器を次々と申請し、学ばれていた。
だが昨年、ご体調が悪いのでと、ご家族からサービスの中止のご連絡以後、交流が途絶えていた。
亡くなった折は、ご葬儀をなさらず、新聞おくやみも出ず、グループへの逝去通知もなかったことから、
ご逝去を知ったのは、20日も後になってのことだった。
プライベートでもお付き合いがあってお見舞いも行かれた元会員の方が
その後のご体調を問い合わせて初めてご逝去を知り、前代表にご連絡をくださった。
ただ、弔問をその元会員の方も控えてるというお話と、その後もわたしたちにも弔問のお許しのご連絡もなかったことから
ご通知をなさらなかった奥様のお心をはかり
ご意志を尊重しようと弔問を控え、お盆のころには、そっとお訪ねしてみようかと話し合った。
先週末に社協から連絡があり。
そのYさんが、わたしたちのグループに遺贈をすると遺言書を残してくださったと東京の遺言委託NPOから書類が届いたと。
びっくりすると同時に、これは控えている場合ではないと奥様に電話し、お訪ねしていいか尋ねると
どうぞ、とおっしゃってくださり。
今日、お宅にうかがった。
亡くなったご主人様への仏花と、奥様への洋花ブーケを抱え玄関に立つと
おさびしげな笑顔で、出迎えてくださった。
仏壇のあるキッチンに招き入れ、見せてくださったYさんのご遺言は、まるで最期の「関白宣言」のようだった。
『葬儀、初七日、四十九日、死亡通達、一切無用。戒名無用、遺骨は散骨。
香典は一切受け取らないこと。ただしそれでもなお弔問があった際は湯茶、茶菓子で接待のこと。』
眼が不自由で腎臓病を患うYさんと急性腎炎で入院した奥様は病棟で出会い、この人を支えようと妻になった。
あまりの関白ぶりに「何度別れようと思ったか」とおっしゃりながら40年を添い遂げた。
そして亡きご主人の遺言を生真面目に守り、だから一切のご連絡をなさらなかった。
「自分からご連絡はできなかったし、来てくださいとは絶対言えない、でも風の便りで知った誰かが来てくれたら、遺言を破ったことにならないから、そうなったらいいなと思っていた。」とのお言葉に、
涙が止まらなくなってしまった。
生前、まだお元気であった頃、ご自宅での対面朗読の場に奥さまが顔を出されたことはなく、お行合いもしないまま、長年が過ぎていた。
サービスとはいえ、他人が家に入ることをご負担に思っていらっしゃるのかもとメンバーは、奥の間にいるだろう奥様へのお声掛けを控えてきた。
だが、それも「主人は、朗読サービスの方々の前に私が出るのを嫌がっていたので、一切顔を出さないよう心掛けていたの。」と。
こんな長い年月の間、お互いに、なんてすれ違った遠慮をしあっていたのだろうと、お互いにびっくりしたり笑いあったり
わたしばかりがめそめそ泣いたり。
それから6時間余り、仏壇前のキッチンのテーブルで堰を切ったようにご主人のおはなしを聞かせてくださり、その間お話が途切れぬまま「余りものだけど」と夕餉を手早に整えてくださり、有難くいただいて、なおお話は途切れず、泣き笑いしながら、お二人の40年の人生を一緒にたどらせていただいた。
遺贈については、正直その金額におののいて、うろたえる私に
「遠慮は無用、主人の遺志を受け取ってね。長年のお詫びよ、あの人いろいろ厳しい注文を出して来たでしょ?」
とからからと笑っておっしゃってくださり。
ありがたく、手を合わせ、受領連絡を法人にさせていただくことにした。
誰よりも、デジタル化を望んでいてくださったYさんの、お心をいただいて、その奥様の想いをいただいて
わたしたちは、動いていけるのだ。
「泊まって行ったら?」とまでお声掛けをいただき、朝からの用意もありますのでとご辞退しながらもありがたく、お名残惜しくお宅を後にした。
郊外の住宅、暗闇の中、外までお見送りをしてくださるお姿に頭を下げ帰路に着いた。
明日の例会で、奥様のお気持ちを皆に伝え、
そのありがたさを、分かち合いたいと思う。
奥様のくれぐれも、のご注意。
「弔問、皆様には行ってくださいというお話の仕方は絶対にしないでね。気が向いたら、近くについでがあったら、
ふっと、生前の朗読の時の私の知らない夫の話をしに寄ろうかなと思ってくださる方がいたら、でいいのよ。」
ご遺言、確かに。ご一緒に守らせていただきます。
朗読サービスを利用してくださってきた薬害による視覚障害と疾病による透析を受けておられたYさんが3月に亡くなった。
ご自分にも他人にも厳しく知識豊富で凛とした昭和の関白亭主型。対面朗読に伺うメンバーは、サービスをしにいくというより
ご指導をいただいて、勉強をさせていただいていた。話題が豊富で、未知の世界をお教えくださった。
慕っていつもYさんの対面当番を希望する者も何人もいた。
ご利用者の中でもっとも、デジタル化を強く望んでおられ、ご自身も新しい機器を次々と申請し、学ばれていた。
だが昨年、ご体調が悪いのでと、ご家族からサービスの中止のご連絡以後、交流が途絶えていた。
亡くなった折は、ご葬儀をなさらず、新聞おくやみも出ず、グループへの逝去通知もなかったことから、
ご逝去を知ったのは、20日も後になってのことだった。
プライベートでもお付き合いがあってお見舞いも行かれた元会員の方が
その後のご体調を問い合わせて初めてご逝去を知り、前代表にご連絡をくださった。
ただ、弔問をその元会員の方も控えてるというお話と、その後もわたしたちにも弔問のお許しのご連絡もなかったことから
ご通知をなさらなかった奥様のお心をはかり
ご意志を尊重しようと弔問を控え、お盆のころには、そっとお訪ねしてみようかと話し合った。
先週末に社協から連絡があり。
そのYさんが、わたしたちのグループに遺贈をすると遺言書を残してくださったと東京の遺言委託NPOから書類が届いたと。
びっくりすると同時に、これは控えている場合ではないと奥様に電話し、お訪ねしていいか尋ねると
どうぞ、とおっしゃってくださり。
今日、お宅にうかがった。
亡くなったご主人様への仏花と、奥様への洋花ブーケを抱え玄関に立つと
おさびしげな笑顔で、出迎えてくださった。
仏壇のあるキッチンに招き入れ、見せてくださったYさんのご遺言は、まるで最期の「関白宣言」のようだった。
『葬儀、初七日、四十九日、死亡通達、一切無用。戒名無用、遺骨は散骨。
香典は一切受け取らないこと。ただしそれでもなお弔問があった際は湯茶、茶菓子で接待のこと。』
眼が不自由で腎臓病を患うYさんと急性腎炎で入院した奥様は病棟で出会い、この人を支えようと妻になった。
あまりの関白ぶりに「何度別れようと思ったか」とおっしゃりながら40年を添い遂げた。
そして亡きご主人の遺言を生真面目に守り、だから一切のご連絡をなさらなかった。
「自分からご連絡はできなかったし、来てくださいとは絶対言えない、でも風の便りで知った誰かが来てくれたら、遺言を破ったことにならないから、そうなったらいいなと思っていた。」とのお言葉に、
涙が止まらなくなってしまった。
生前、まだお元気であった頃、ご自宅での対面朗読の場に奥さまが顔を出されたことはなく、お行合いもしないまま、長年が過ぎていた。
サービスとはいえ、他人が家に入ることをご負担に思っていらっしゃるのかもとメンバーは、奥の間にいるだろう奥様へのお声掛けを控えてきた。
だが、それも「主人は、朗読サービスの方々の前に私が出るのを嫌がっていたので、一切顔を出さないよう心掛けていたの。」と。
こんな長い年月の間、お互いに、なんてすれ違った遠慮をしあっていたのだろうと、お互いにびっくりしたり笑いあったり
わたしばかりがめそめそ泣いたり。
それから6時間余り、仏壇前のキッチンのテーブルで堰を切ったようにご主人のおはなしを聞かせてくださり、その間お話が途切れぬまま「余りものだけど」と夕餉を手早に整えてくださり、有難くいただいて、なおお話は途切れず、泣き笑いしながら、お二人の40年の人生を一緒にたどらせていただいた。
遺贈については、正直その金額におののいて、うろたえる私に
「遠慮は無用、主人の遺志を受け取ってね。長年のお詫びよ、あの人いろいろ厳しい注文を出して来たでしょ?」
とからからと笑っておっしゃってくださり。
ありがたく、手を合わせ、受領連絡を法人にさせていただくことにした。
誰よりも、デジタル化を望んでいてくださったYさんの、お心をいただいて、その奥様の想いをいただいて
わたしたちは、動いていけるのだ。
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そのありがたさを、分かち合いたいと思う。
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ふっと、生前の朗読の時の私の知らない夫の話をしに寄ろうかなと思ってくださる方がいたら、でいいのよ。」
ご遺言、確かに。ご一緒に守らせていただきます。
桔梗ヶ原おはなしサロン準備室より:お知らせ
本番のあと
読み聞かせと読み語り
映画「リンドグレーン」もうひとつのパーソナルストーリー~秘密の往復書簡より~
終演 シューベルト歌曲「冬の旅」
明日は全国短歌フォーラムin塩尻学生の部
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Posted by のんたん
at 00:22
│声仕事
あらためて考える機会とします。
悔いか。
悔いが残らない人生なんてないと思う。
残らない様に生きたいといっても、
その死の瞬間は来てみないとわからないから。
会いたい人に会えるときにあい、言葉を伝え、想いを伝え、いつでもそうして生きていきたいです。
訪ねて下さって、様子を知らせて下さって、、、。
時に、気難しくも見える真面目なお顔と、大きなお口で笑う笑顔とのギャップが 私は、好きでした。お伺いする日は、仕事場から駆けつけ 車の中で、簡単に昼食を取る形でありました。それでも、お伺いしたくて メンバーに入れて貰っていた日々が懐かしい。家族の病気が原因で伺えなくなり それきりお会いできなかったのが残念でなりません。
お忙しい中をやりくりして活動をありがとうございました。
わたしも対面にうかがえたのは数年前。
ここ何年かは、フォロー役で現場から遠のいていましたので、お元気なころのYさんしか脳裏に残っていないのです。
でも、遺骨の前のお写真は、少しお若いころのYさんで、素敵な横顔。
お葬式用に作った近年のお写真はふせてあり、「わたし、この顔より、こっちがいいの」と奥様が。
なのでわたしもお元気なころのYさんの面影のままお話をしてきました。お会いできなかった数年は残念だったけれど、笑顔を思い出さるわたしたちは幸せですね。
ご冥福を祈ります。