2013年08月16日
意訳 税所敦子刀自(2)
前編はこちら
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(2)
さて。
夫篤之の改心から数年、婚儀から6年目、あつこは待望の第一子、徳子を生む。
すっかりマイホームパパとなった篤之とかわいい徳子、あつこはこのうえなき幸せな日々を過ごしていた。
ところが、あつこ28歳の年、夫篤之が床に臥す。
悪い風邪を引いたようだ、と養生につとめたが、一向に回復の兆しなく、実は当時、不治の病とされていた「肺病」にかかっていたのだ。
あつこは、昼夜を問わず、着替えさえしないまま、看病に明け暮れたが、とうとう44歳の若さで篤之はその生涯を閉じてしまった。
あつこは泣きながら自分の黒髪を切り落とし夫の棺にいれ、
「黒髪に うき身をかふるものならば 後の世までもおくれざらまし」と歌を詠んだ。
昼も夜もわからないまま嘆き悲しんでいるうちに、あつこは体調の異変に気がつく。
おなかに、ややこができていたのだ。
周囲の人は「こんなときにあいにくな話だ気の毒に」とささやいたが、
あつこは「きっとこの子は男の子、なんと頼もしいことでしょう。」と気持ちを立て直して身を大事にした。
あつこの一念はこれまたかない。生まれた赤ん坊は男の子。
だが、元来、聡明ではあるが体が丈夫ではないあつこ、夫を失った心身疲労も手伝ってか、お産の折は難産で
出産から10日も起き上がれずにいた。そしてその間に、せっかく授かった男の子も、生命力が弱く亡くなってしまった。
悲嘆にくれるあつこは、なかなか回復できずに臥せっている日が続く。
ところがこんどは、一人娘の徳子が重い疱瘡にかかってしまう。
あのかわいらしい顔が見違えるような有様。
あつこは、この娘の危機に、自身を奮い立たせる。
この子まで亡くしてなるものか。
まさに病は気から。
鬱々と起き上がることさえままならなかったその身は、むく、と起き上がり、徳子の看病に心血を注ぐ。
看病の間の心配と、子を亡くすかもしれない恐怖のなかで、病気がちだった我が幼少期を振り返り、両親の心配と慈愛はどれだけ大きいものだったかを思い知り、
「たらちねの 親のいさまで嬉しきは この苦しさを見せぬなりけり」という歌をのちに残している。
看病の甲斐あってようやく徳子は回復に向かう。師走の月に入った頃だった。
自身の回復、徳子の快癒を経て、ようやく落ち着きを取り戻したあつこは、はたと思い至る。
ああ、亡き夫には、前妻の娘が二人、夫の故郷の薩摩にいるではないか。
愛する夫の血を分けた娘たち、・・・。わたしの娘たち!
そうだ、薩摩に行って、あの子たちの母となろう!亡き夫に代わり、私の娘たちをお育てくださっているお姑さまに孝を尽くそう、そうだ、それが私の道なのだ!
思い立ったら、止まらない性のあつこ女史。想いはまだ見ぬ娘たちに、義母に飛んでいく。夫所縁の方々の元へいざゆかん。
早々に、居を整理し旅支度を始める。
周囲は、それを聞きつけて、親族友人こぞって止めに来る。
「なんでわざわざ苦労をしに行く、徳子を不憫と思わぬか、辺鄙で頑固そのものな薩摩気風にお前が受け入れられるわけがない、どうか思いとどまってこの地で暮らしておくれ。」
異口同音に皆が止めるが、あつこは揺るがず。
師である千種卿にいとまごいをして、不退転の覚悟で、娘を連れて薩摩に下った。
と書くと、何やら壮絶な決心のように見えるのだが、そこは、生来の楽天家、あつこ。
娘との初めての長旅を、寄り道をしながら楽しみ(温泉や名所)、「心づくし」という道中日記をしたためる。
その行程、4月に京を出発、5月の節句には明石の浦、柿本人丸の社に詣で、吉備津宮に賽し(お参り)、厳島の勝景を訪ね、筑紫にわたって山鹿の温泉に浸かり、、と40日余りをかけて6月に鹿児島城下にたどりつく。
その道中日記は、のちに更級日記に勝る名文と評された。
さてさて、薩摩で待ち受ける、かの有名な嫁いびり話は、また次のおはなし。
<つづく>
2013/08/15
このところ、古書づいている。まだほかにも書きたい題材があるが、
今度の仕事でかかわる税所敦子氏の伝記から読んでいる。
賢女としてのエピソードには事欠かないが、もっと人間臭い敦子女史に出逢いたかった。・・・・
今度の仕事でかかわる税所敦子氏の伝記から読んでいる。
賢女としてのエピソードには事欠かないが、もっと人間臭い敦子女史に出逢いたかった。・・・・
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(2)
さて。
夫篤之の改心から数年、婚儀から6年目、あつこは待望の第一子、徳子を生む。
すっかりマイホームパパとなった篤之とかわいい徳子、あつこはこのうえなき幸せな日々を過ごしていた。
ところが、あつこ28歳の年、夫篤之が床に臥す。
悪い風邪を引いたようだ、と養生につとめたが、一向に回復の兆しなく、実は当時、不治の病とされていた「肺病」にかかっていたのだ。
あつこは、昼夜を問わず、着替えさえしないまま、看病に明け暮れたが、とうとう44歳の若さで篤之はその生涯を閉じてしまった。
あつこは泣きながら自分の黒髪を切り落とし夫の棺にいれ、
「黒髪に うき身をかふるものならば 後の世までもおくれざらまし」と歌を詠んだ。
昼も夜もわからないまま嘆き悲しんでいるうちに、あつこは体調の異変に気がつく。
おなかに、ややこができていたのだ。
周囲の人は「こんなときにあいにくな話だ気の毒に」とささやいたが、
あつこは「きっとこの子は男の子、なんと頼もしいことでしょう。」と気持ちを立て直して身を大事にした。
あつこの一念はこれまたかない。生まれた赤ん坊は男の子。
だが、元来、聡明ではあるが体が丈夫ではないあつこ、夫を失った心身疲労も手伝ってか、お産の折は難産で
出産から10日も起き上がれずにいた。そしてその間に、せっかく授かった男の子も、生命力が弱く亡くなってしまった。
悲嘆にくれるあつこは、なかなか回復できずに臥せっている日が続く。
ところがこんどは、一人娘の徳子が重い疱瘡にかかってしまう。
あのかわいらしい顔が見違えるような有様。
あつこは、この娘の危機に、自身を奮い立たせる。
この子まで亡くしてなるものか。
まさに病は気から。
鬱々と起き上がることさえままならなかったその身は、むく、と起き上がり、徳子の看病に心血を注ぐ。
看病の間の心配と、子を亡くすかもしれない恐怖のなかで、病気がちだった我が幼少期を振り返り、両親の心配と慈愛はどれだけ大きいものだったかを思い知り、
「たらちねの 親のいさまで嬉しきは この苦しさを見せぬなりけり」という歌をのちに残している。
看病の甲斐あってようやく徳子は回復に向かう。師走の月に入った頃だった。
自身の回復、徳子の快癒を経て、ようやく落ち着きを取り戻したあつこは、はたと思い至る。
ああ、亡き夫には、前妻の娘が二人、夫の故郷の薩摩にいるではないか。
愛する夫の血を分けた娘たち、・・・。わたしの娘たち!
そうだ、薩摩に行って、あの子たちの母となろう!亡き夫に代わり、私の娘たちをお育てくださっているお姑さまに孝を尽くそう、そうだ、それが私の道なのだ!
思い立ったら、止まらない性のあつこ女史。想いはまだ見ぬ娘たちに、義母に飛んでいく。夫所縁の方々の元へいざゆかん。
早々に、居を整理し旅支度を始める。
周囲は、それを聞きつけて、親族友人こぞって止めに来る。
「なんでわざわざ苦労をしに行く、徳子を不憫と思わぬか、辺鄙で頑固そのものな薩摩気風にお前が受け入れられるわけがない、どうか思いとどまってこの地で暮らしておくれ。」
異口同音に皆が止めるが、あつこは揺るがず。
師である千種卿にいとまごいをして、不退転の覚悟で、娘を連れて薩摩に下った。
と書くと、何やら壮絶な決心のように見えるのだが、そこは、生来の楽天家、あつこ。
娘との初めての長旅を、寄り道をしながら楽しみ(温泉や名所)、「心づくし」という道中日記をしたためる。
その行程、4月に京を出発、5月の節句には明石の浦、柿本人丸の社に詣で、吉備津宮に賽し(お参り)、厳島の勝景を訪ね、筑紫にわたって山鹿の温泉に浸かり、、と40日余りをかけて6月に鹿児島城下にたどりつく。
その道中日記は、のちに更級日記に勝る名文と評された。
さてさて、薩摩で待ち受ける、かの有名な嫁いびり話は、また次のおはなし。
<つづく>
Posted by のんたん
at 00:06
│古書