2010年12月17日
妄想と正気のはざまで
昨日はおばあちゃんのお引越し。
朝一で平出家具さんが電動ベッドを運搬に来てくださり手早に解体をして持って行ってくれた。
さすがプロ。私一人では5センチ移動するだけでも四苦八苦な重たいベッドだというのに。
トラックを見送っておばあちゃんのお迎えに、お世話になった短期施設へ。
施設の皆さんが玄関までお見送りをしてくださり、皆で手を振ってくださった。
ご満悦のおばあちゃん。皇后さまのように車中から手を振る。
ご機嫌がよろしいのは何より。
車の中でも先日見学したグループホームのことを
「あんなよいところに手配をしてくれてありがとう。世話をかけるねぇ」と殊勝なものいい。
ちょっとびっくり。けれど、正気っぽい今日は静かに事が運びそうだと安堵。嬉しや。
おばあちゃんを誘導してホーム内へ。
落ち着かせてから後部座席に詰め込んできた荷物の運び入れ。
玄関先に車から荷物を繰り返し運ぶ。
「お一人で大変ね」と施設の方が玄関から部屋までの運搬を手伝ってくださった。
ベッドメイクとクローゼットの整理、洗面用具のセットを終え、手続き書類の確認と押印。
おばあちゃん、「お世話になりますねぇ」と深々と施設の方々にご挨拶。
昼食風景を参観して帰宅。
この調子でいてくれるといいなと思いきや。
今日、残りの衣類等を届けに行くと、さっそくあれこれ小さな「事件」があったようで。
あららら;そうそうに?;
「すみません;」と頭を下げる。
「いえいえ。慣れてますから」とはおっしゃてくださるが、苦笑いに見えて恐縮。
小一時間手を握りつつ歩いたり話をしたりして帰宅。
なじめるといいけれど。。。
おばあちゃんはこれまでの人生、専業主婦という立場で「家庭」という狭いコミュニティーの中で
「君臨」と泣き落としでみなを支配する立場にいた。
夫も息子たちもおばあちゃんの鶴の一声で動かせてきた。
支配が及ばなくなると泣き崩れて「私の言うことが聞けないのか」「山へ入って首をつってやる」と悲劇的になる。
おじいちゃんが死んだあと、「一人でいられない」と泣き続けるおばあちゃんをほっておけず、私の夫は単身赴任をして
私と子どもをだけをおばあちゃんのもとに送り込んだ。
義弟もかつては同居を試みたし、亡き義兄も妻と別れてもおばあちゃんの面倒をみると言っていた。
子らがいくつになってもおばあちゃんは「母」として君臨し続けられた。
被害妄想が強くなり始めたのは、義弟の愛想づかしと、
でき愛してきた義兄の逝去によって、義兄家族がおばあちゃんと音信を絶ったあたりからだろう。
認知症の発症もこのころからだったかもしれない。
必要不可欠の存在としてコミュニティーの中で認められていることこそが、おばあちゃんのアイディンティティーだった。
それでも、塩尻に来てからの我が家での暮らしも、すべてがおばあちゃんを中心に構成されていた。
今後、家庭の外で暮らす、ということは、鶴の一声がきかなくなるということ。
短期施設では本人は「入院」という意識でいたから別として。
初めて、one of them の暮らしを体験することになる。
吉と出るか否か。
ホームの方からもしばらくは通ってくださいと念押しがきた。
フォローにつとめよう。
朝一で平出家具さんが電動ベッドを運搬に来てくださり手早に解体をして持って行ってくれた。
さすがプロ。私一人では5センチ移動するだけでも四苦八苦な重たいベッドだというのに。
トラックを見送っておばあちゃんのお迎えに、お世話になった短期施設へ。
施設の皆さんが玄関までお見送りをしてくださり、皆で手を振ってくださった。
ご満悦のおばあちゃん。皇后さまのように車中から手を振る。
ご機嫌がよろしいのは何より。
車の中でも先日見学したグループホームのことを
「あんなよいところに手配をしてくれてありがとう。世話をかけるねぇ」と殊勝なものいい。
ちょっとびっくり。けれど、正気っぽい今日は静かに事が運びそうだと安堵。嬉しや。
おばあちゃんを誘導してホーム内へ。
落ち着かせてから後部座席に詰め込んできた荷物の運び入れ。
玄関先に車から荷物を繰り返し運ぶ。
「お一人で大変ね」と施設の方が玄関から部屋までの運搬を手伝ってくださった。
ベッドメイクとクローゼットの整理、洗面用具のセットを終え、手続き書類の確認と押印。
おばあちゃん、「お世話になりますねぇ」と深々と施設の方々にご挨拶。
昼食風景を参観して帰宅。
この調子でいてくれるといいなと思いきや。
今日、残りの衣類等を届けに行くと、さっそくあれこれ小さな「事件」があったようで。
あららら;そうそうに?;
「すみません;」と頭を下げる。
「いえいえ。慣れてますから」とはおっしゃてくださるが、苦笑いに見えて恐縮。
小一時間手を握りつつ歩いたり話をしたりして帰宅。
なじめるといいけれど。。。
おばあちゃんはこれまでの人生、専業主婦という立場で「家庭」という狭いコミュニティーの中で
「君臨」と泣き落としでみなを支配する立場にいた。
夫も息子たちもおばあちゃんの鶴の一声で動かせてきた。
支配が及ばなくなると泣き崩れて「私の言うことが聞けないのか」「山へ入って首をつってやる」と悲劇的になる。
おじいちゃんが死んだあと、「一人でいられない」と泣き続けるおばあちゃんをほっておけず、私の夫は単身赴任をして
私と子どもをだけをおばあちゃんのもとに送り込んだ。
義弟もかつては同居を試みたし、亡き義兄も妻と別れてもおばあちゃんの面倒をみると言っていた。
子らがいくつになってもおばあちゃんは「母」として君臨し続けられた。
被害妄想が強くなり始めたのは、義弟の愛想づかしと、
でき愛してきた義兄の逝去によって、義兄家族がおばあちゃんと音信を絶ったあたりからだろう。
認知症の発症もこのころからだったかもしれない。
必要不可欠の存在としてコミュニティーの中で認められていることこそが、おばあちゃんのアイディンティティーだった。
それでも、塩尻に来てからの我が家での暮らしも、すべてがおばあちゃんを中心に構成されていた。
今後、家庭の外で暮らす、ということは、鶴の一声がきかなくなるということ。
短期施設では本人は「入院」という意識でいたから別として。
初めて、one of them の暮らしを体験することになる。
吉と出るか否か。
ホームの方からもしばらくは通ってくださいと念押しがきた。
フォローにつとめよう。
Posted by のんたん
at 22:16
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