2012年08月29日
烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)
菩提寺からいただいたお盆の法話の冊子には、日常に唱える経典として
「摩訶般若波羅蜜多心経」が載っており。
ときおり開いて唱えてみたりしている。
その後ろのページに法話が載っており。
先祖の供養の話の中に、
お檀家のおばあちゃんが5人の子を育て上げたが、どの子も都会で暮らしておるため、
長年独り暮らしの果てに、お手洗いで一人寂しく息絶えていました。
とあった。
生前そのおばあちゃんに月参りの後のお茶のみ話に
「おばあちゃんにとっての幸せは何ですか?」と問うたところ
「子供らのしあわせこそが、私の幸せ」と言い切ったそうだ。
法話は、このあと「命を受け継ぐ先祖供養」という内容に転じていくが。
最初は、「信心深い方がおかわいそうに」という印象を持ったが、
考えてみるに、「否。なんとお幸せな昇天であろう。」と思い至った。
日々、子や孫の安泰を願い暮らしていた信心深く、慎み深かった彼女の最期は
美しき烏枢沙摩明王に、看取られ。
息絶える瞬間の不安は
「ああ、子らに面倒をかけずに逝くことができた」という安堵に転じたのではないだろうか。
近年、トイレの神様という歌が流行り、トイレにはきれいな女神さまが居ると歌っていたが、
本来は不動明王のように炎を背にした男女二人の大変美しい神々(烏枢沙摩明王)が
いっさいの穢れと悪を焼き尽くしてくださっているのだそうだ。
けして。「ひとり」「寂しく」息絶えたのでは、なく。
得心して召されたのだ。
つい、老後を思うと自分に置き換えて考えてしまう話だが。
そう思いたい。
「摩訶般若波羅蜜多心経」が載っており。
ときおり開いて唱えてみたりしている。
その後ろのページに法話が載っており。
先祖の供養の話の中に、
お檀家のおばあちゃんが5人の子を育て上げたが、どの子も都会で暮らしておるため、
長年独り暮らしの果てに、お手洗いで一人寂しく息絶えていました。
とあった。
生前そのおばあちゃんに月参りの後のお茶のみ話に
「おばあちゃんにとっての幸せは何ですか?」と問うたところ
「子供らのしあわせこそが、私の幸せ」と言い切ったそうだ。
法話は、このあと「命を受け継ぐ先祖供養」という内容に転じていくが。
最初は、「信心深い方がおかわいそうに」という印象を持ったが、
考えてみるに、「否。なんとお幸せな昇天であろう。」と思い至った。
日々、子や孫の安泰を願い暮らしていた信心深く、慎み深かった彼女の最期は
美しき烏枢沙摩明王に、看取られ。
息絶える瞬間の不安は
「ああ、子らに面倒をかけずに逝くことができた」という安堵に転じたのではないだろうか。
近年、トイレの神様という歌が流行り、トイレにはきれいな女神さまが居ると歌っていたが、
本来は不動明王のように炎を背にした男女二人の大変美しい神々(烏枢沙摩明王)が
いっさいの穢れと悪を焼き尽くしてくださっているのだそうだ。
けして。「ひとり」「寂しく」息絶えたのでは、なく。
得心して召されたのだ。
つい、老後を思うと自分に置き換えて考えてしまう話だが。
そう思いたい。
Posted by のんたん
at 12:23
│思う
とりあえず、おばあちゃんに合掌デス。。。
うん。(^-^)そう思いたい。
きっと、そう。
合掌。
日本人って「ひとり」でいることを、
いけないことのように捉えているのでは?
と、時々思います。
「ひとり」でいたくなくて無理をして、
好きじゃない子とお友達ごっこをしたり。
特に、子供たちが独立した後、
ひとりでいるのは危ないとか寂しいとか、
世間が不安を煽っている感じがするんです。
でも、きっとこのおばあちゃんの死に顔は
とても安らかだったでしょうね。
私もこんな最期を迎えたいです。
(夏休みに合わせてライトアップして、夜店も出て、入場券にはしっかり「トイレの神様」と書いてある。)
烏枢沙摩明王のお札があって、同居人は一瞬買おうかとおもったらしいのですが、
「トイレをきれいにして、お札を飾っておくと後利益がある」というような説明が書いてあって、
「う~ん、わが家はちょっと自信ない」だそうです。
昨今ようやく、「おひとりさま」の認知が進んできましたが、それも、若年世代のこと。
高齢のおひとり様は、社会問題として扱われていますね。
孤独死という言葉に違和感もあり。
わたしも、自信ないなぁ。
神様をお祀りするには心苦しい(^-^;
男子が座って「してくれる」と、お掃除楽なんだけどなぁw。