2013年07月02日
生きじろう
死にも出来なきゃ、治れもしねぇ、生きじろってるのは、きついやなぁ。
夜中に何度もトイレに吐きに起きていた頃、夫が吐き終わった苦しい息の中でつぶやいたことば。
吐き終わってといったところで、食べられてないので出る内容物などなく、血混じりの胃液ばかりだった。
背中をさすりながら、「ほんでも、生きててくれりゃぁ、うれしいわやぁ。」と、声をかけ、
支えてベッドに戻った。
生きじろう、と検索しても出てこない。方言なんだろうか。
生きまどう、とも違うか。
近い未来に死が迫ってるとわかりつつ生ある限りは、生きなければならないやるせなさを表す言葉。
ぎりぎりまで、在宅で、できれば看取りもこのまま家で、と思っていたけれど。
それから自分で立ってトイレに歩けなくなり、水分も摂れなくなった数か月後、病院に入院して数週間で息を引き取った。
病院に入院してからは、達観、というか穏やかに、日々を過ごしていられたので、
あの頃が一番、死を受け入れるための葛藤期だったのだろう。。。
夫が若いころ、同僚だった方が、こちらに住む元部下の方を通して、来週の出張の折、立ち寄って焼香をしたいが、とのご連絡があった。
今は、某官庁の長になられている。
年も亡き夫と同年代、同僚の頃は、お互い新婚で、官舎に手料理を持ち寄りホームパーティーもどきも何度かしたっけ。
その後は、同じ省内管轄ではあったが、別々の分野に進んだので、一緒の官舎になることはなかったが、
たまには接点があったようで、数回、「今日一緒だったよ」と夫の口から話が出たことがあった。
昔話など、しに来て下さるのだろう。ありがたいことだ。
お忙しい中を、有難い、と思いつつも。
心が波立つ。
そして、昔話をなつかしく語り合えるほどには、わたしは昇華できていないことに気がつく。
夫の「生きじろって」という言葉がよみがえってきたのもそのせいだろう。
生きて現役であれば、一番円熟と多忙の日々にある50代後半。
思い残すことはないといって去った彼ではあるが、わたしには、無念が残る。
定年を、祝いたかった。
「長い間お疲れ様でした」「いままでありがとう」と照れずに言い合えたかはわからないが。
訪ねてくださるその方は、もうすぐそれが、できるひとなのだ、と、ふと、うらやむ心が芽生えた。
同年代の同時期の結婚、ご近所同士だった新婚生活、日々のたわいのない会話、お互いにあることが当たり前だった未来。
あの頃の時間の共有が、わたしをそんな負の感情に貶める。
良い思い出のはずなのに。
だめだめ。
気持ちを、立て直そう。
ありがたいお気持ちを、まっすぐ受け止められる自分を作ろう。
この1週間で。
夜中に何度もトイレに吐きに起きていた頃、夫が吐き終わった苦しい息の中でつぶやいたことば。
吐き終わってといったところで、食べられてないので出る内容物などなく、血混じりの胃液ばかりだった。
背中をさすりながら、「ほんでも、生きててくれりゃぁ、うれしいわやぁ。」と、声をかけ、
支えてベッドに戻った。
生きじろう、と検索しても出てこない。方言なんだろうか。
生きまどう、とも違うか。
近い未来に死が迫ってるとわかりつつ生ある限りは、生きなければならないやるせなさを表す言葉。
ぎりぎりまで、在宅で、できれば看取りもこのまま家で、と思っていたけれど。
それから自分で立ってトイレに歩けなくなり、水分も摂れなくなった数か月後、病院に入院して数週間で息を引き取った。
病院に入院してからは、達観、というか穏やかに、日々を過ごしていられたので、
あの頃が一番、死を受け入れるための葛藤期だったのだろう。。。
夫が若いころ、同僚だった方が、こちらに住む元部下の方を通して、来週の出張の折、立ち寄って焼香をしたいが、とのご連絡があった。
今は、某官庁の長になられている。
年も亡き夫と同年代、同僚の頃は、お互い新婚で、官舎に手料理を持ち寄りホームパーティーもどきも何度かしたっけ。
その後は、同じ省内管轄ではあったが、別々の分野に進んだので、一緒の官舎になることはなかったが、
たまには接点があったようで、数回、「今日一緒だったよ」と夫の口から話が出たことがあった。
昔話など、しに来て下さるのだろう。ありがたいことだ。
お忙しい中を、有難い、と思いつつも。
心が波立つ。
そして、昔話をなつかしく語り合えるほどには、わたしは昇華できていないことに気がつく。
夫の「生きじろって」という言葉がよみがえってきたのもそのせいだろう。
生きて現役であれば、一番円熟と多忙の日々にある50代後半。
思い残すことはないといって去った彼ではあるが、わたしには、無念が残る。
定年を、祝いたかった。
「長い間お疲れ様でした」「いままでありがとう」と照れずに言い合えたかはわからないが。
訪ねてくださるその方は、もうすぐそれが、できるひとなのだ、と、ふと、うらやむ心が芽生えた。
同年代の同時期の結婚、ご近所同士だった新婚生活、日々のたわいのない会話、お互いにあることが当たり前だった未来。
あの頃の時間の共有が、わたしをそんな負の感情に貶める。
良い思い出のはずなのに。
だめだめ。
気持ちを、立て直そう。
ありがたいお気持ちを、まっすぐ受け止められる自分を作ろう。
この1週間で。
Posted by のんたん
at 23:28
│思う
自分が何もせずに、できないと言ってしまう事に恥ずかしさを覚えました。
幾つものご苦労を重ねていらっしゃる。
良い人ほどなぜという事が多いですが、溢れるものをこの世では受け止めきれないのかもしれませんね。
自分の情けなさに深く反省。
もしかコメントがお気持ちの妨げになりましたら、申し訳ありません。
彼にとっては末期告知の日が定年確定日でした。
告知後病院で携帯をだし、まずは、直属の部下に電話をし、事情を説明し、翌日の仕事の手配を伝達し、それから本庁、関係各所へ。
普通の顔で淡々と当たり前のように引継ぎの手配を続けました。
痛み止めの麻薬を使いながらその後数度、職場におもむき、最後の案件を片付け、あいさつをして帰宅しました。
受け止める側の方々は、その内容と伝える夫の平静さのギャップに、現実味を持てないまま、作業に入った、と後述してくれました。
仕事に走り続けた人でしたのに、止まるときは、さばさば。
その心情をそのまま推し量る力がありませんが、すでに仕事の対する完結感があったのかもしれません。あと〇〇年で満期釈放だと、たまにふざけた言葉を発していましたので。
オザさまは充分、多くのお仕事をこなしておられます、でも何もできずにできない、と思ってしまわれるのは、その先をもご自分に課したい誠意の表れです。
ご自身を労わることを、どうか最優先なさってくださいませ。
まあ、身体には気をつけないといけない年齢にはなってきてるとは思います。
本当はすごく良い加減なんですが、かっこつけなのかもしれませんね。
いい加減は好い加減、ですね♪