2012年01月24日
現実感のなさ
人生の中で現実感のなさをたびたび感じてきた。
何年も一緒に過ごしているのに、ふと今のこの状態が自分の「当たり前」として認識できず
ふわふわとした、なんていうんだろ、ここにいるわたしは、暫定的、みたいなよりどころのなさ?
もちろん、幸福感でいっぱいになった瞬間もあったし、日々の暮らしは足が地についたものだったと思うのだけれど。
永遠、といかないまでも、「ずっと」を信じたことがなかった。
確かに、自分はここにいて暮らしているのに、自分の存在感が希薄で、透明人間になったような
生身の自分をどこかからスコープで観察しながら「ふ~ん」と第3目線で見ている自我。
受け入れる、という過程をおろぬいて生きていたのだろうか。
プチかい離?
だからやり過ごせてきたのかもしれないし、人生の醍醐味を、もったいなくもスルーしてきたともいえる。
正直に言えば、私の喜怒哀楽は「学習」による表現で、自然発露に由来しない。
感情スイッチは勝手に入るものではなく、自分で入れる手動型なのだ。
忘れていると、のっぺらぼうのでくのぼうだと思う。
それが怖いからスイッチはこまめに随時入れる癖がついていて
だから人からは感情豊か、とか思われてありがたいけど後ろめたかったりする。
こんなんでここまで生きちゃったから、この先もこんなんで生きていくのだろう。
幼少期祖母に育てられていたころは、豊かすぎるほどにぎやかな感情変化を持っていた気がするのだが
祖母が他界して思春期前あたりから、こののっぺらぼうな自分が始まった。
自動スイッチをなくしてしまったちょっと、めんどくさい生き方を持ってしまった。
老年期に認知症にでもなれば、たががはずれて能面型になるのかもしれない。
何年も一緒に過ごしているのに、ふと今のこの状態が自分の「当たり前」として認識できず
ふわふわとした、なんていうんだろ、ここにいるわたしは、暫定的、みたいなよりどころのなさ?
もちろん、幸福感でいっぱいになった瞬間もあったし、日々の暮らしは足が地についたものだったと思うのだけれど。
永遠、といかないまでも、「ずっと」を信じたことがなかった。
確かに、自分はここにいて暮らしているのに、自分の存在感が希薄で、透明人間になったような
生身の自分をどこかからスコープで観察しながら「ふ~ん」と第3目線で見ている自我。
受け入れる、という過程をおろぬいて生きていたのだろうか。
プチかい離?
だからやり過ごせてきたのかもしれないし、人生の醍醐味を、もったいなくもスルーしてきたともいえる。
正直に言えば、私の喜怒哀楽は「学習」による表現で、自然発露に由来しない。
感情スイッチは勝手に入るものではなく、自分で入れる手動型なのだ。
忘れていると、のっぺらぼうのでくのぼうだと思う。
それが怖いからスイッチはこまめに随時入れる癖がついていて
だから人からは感情豊か、とか思われてありがたいけど後ろめたかったりする。
こんなんでここまで生きちゃったから、この先もこんなんで生きていくのだろう。
幼少期祖母に育てられていたころは、豊かすぎるほどにぎやかな感情変化を持っていた気がするのだが
祖母が他界して思春期前あたりから、こののっぺらぼうな自分が始まった。
自動スイッチをなくしてしまったちょっと、めんどくさい生き方を持ってしまった。
老年期に認知症にでもなれば、たががはずれて能面型になるのかもしれない。
Posted by のんたん
at 10:03
│思う
私もそうですし。。。
他人に印象付けている自分の振る舞いと、心の中に見える自分の姿。
もしかするとそのようなギャップが、人の深さとなって表れてくるのかも知れませんね。
ギャップ・・。
そうかぁ、誰に中にも感じ方の違いで、そういう感覚は多かれ少なかれあるのかもしれませんね。
内も外も同じ、という人も素敵ですが、ギャップを持って生きることもまたその人の個性なのかもしれないですね。。
OnとOff
白か黒か
1と0
デジタルの世界感
それをボリュームと考えると
もうちょっと大きく
もうちょっと小さく
ほんのちょっと
ものすごく
アナログの世界感
曖昧でいいかげん
だいたいなんだよねたぶん
中途半端でほどほど
なんとかなるかなぁ
ただ、明日からはもう少しだけ頑張ろうかな
なあんてね
それはそれでいいのかな
優柔不断なところが好き
人生に明確な座標なんてないし、
ゆるゆると座礁しないように進むだけ
とらえどころが無いけど
拿捕されたらそれでおしまい
ゆるゆると逃げ惑う
迷彩服を纏う
今回は呼び捨てに「blue」と呼びたくなりました。ごめんね。
詩人さん。すてきな言葉をありがとう。